鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 440 ―により以下の関連史料「家世雑記」の記述や伝世の経緯等が明らかにされている(注2)。「慶長四年、神君江戸より大坂へ赴かせらるる時、相應院君、仙千代君從行給ふ。種長随從を命ぜられ、寒気の時道中着用可仕との上意にて、御召古御紋附御小袖壱ツ拝領于今傳来す〈紫御腰替り絞御紋なり裾も御紋あり〉。仙千代君よりも御紋附麻の御肩衣二具拝領于今傳来す。」(句読点は筆者による。〈 〉内割注、以下同様。)「家世雑記」は拝領者と考えられる佐枝種長の後裔種茂(1863歿)が記した『佐枝家記』の一部であり、写本が名古屋市立鶴舞中央図書館に所蔵される。文中の神君は家康を指しており、慶長4年(1599)には前年より伏見城に在居し度々大坂に赴いていることから、江戸は伏見の誤りかと思われる(『徳川実紀』参照、注3)。相應院(1642歿)は、徳川家康の側室で第8子仙千代(1595−1600)の生母お亀の方である。筆者による名古屋市立鶴舞中央図書館所蔵「家世雑記」の調査では、上記の条の前後に、佐枝種長が仙千代に乳兄弟の縁をもって近侍し、仙千代が慶長5年に早世した後には、仙千代の養父となっていた家康の重臣平岩親吉(1542−1611)に仕え重用された記述が見出された。前掲の徳川論文が指摘するように、慶長4年に仙千代が平岩親吉の養子となったことは『寛政重修諸家譜』などからも確認できる(注4)。本作が、明治時代中期頃まで仙千代の遺品と伝わる肩衣2領とともに佐枝家に伝世した点などを勘案しても、上記の伝来の信憑性は高く、徳川家康所用であること、並びに拝領年は妥当であると考えられる。佐枝家に伝世した後は、名古屋の篤志家稲垣氏の手を経て、昭和52年(1977)に徳川美術館に寄贈された。作品調査の結果、実測寸法は、身丈140.0(以下単位はcm)、裄54.3、前幅35.8、後幅36.8、袖丈48.1、袖幅19.6、袖口19.5、衽幅22.5、衽下り12.0、襟幅14.0、立褄35.5である(注5)。現状は、袷仕立て綿入の小袖であり、表は白練緯、裏は茶地平絹とする。徳川美術館に寄贈された時点では、表の練緯地は経年変化による横方向への亀裂が甚だしく、裏の濃茶地平絹はわずかに断片を残すのみで大破した状態であり、近年全体の修理が行われた(注6)。修理前の各部寸法と現状では大きな変化はなく、裏地に茶地平絹を新調したものの、表の練緯地の組織は丁寧に復元されたことが分かる。形態は、袖幅が狭く身幅が広い、立褄が短いといった、桃山時代から江戸時代初頭の小袖に共通すると指摘される特徴を示している(注7)。模様構成は、袖の下端から腰の部分を絞り染めにより直線で紫に染め分け、腰替りとしている。桃山時代の小袖類に多く見られる肩と裾に模様を配置した「肩裾」を逆転させたような構成である。本作の腰替りの模様構成と葵紋の配置は、江戸時代以降の武家服飾において、内衣とし

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