3.近世初頭における葵紋配置の流れ─紋散らしから五つ紋へ三つ葉葵の紋は、徳川家康による覇権が確立した近世以降には、徳川家の家紋としてその権威の象徴となった。その起源は、古くは賀茂社との関わりから、また家康の出身地である三河の松平氏が以前から葵紋を家紋に用いていたことなどから、家康も家紋に三つ葉葵を採用したのではないかとされている(注11)。家紋は、室町末期の戦乱の頃より旗や指物などに付され、次いで武家の服飾類にも付けられるようになったが、戦国時代には未だ家紋の大きさや形は一定していなかったことが指摘される(注12)。その後、家紋の形状や配置は江戸時代にかけて次第に整い、形も概ね対称的になったことが想定されている(注13)。徳川家康所用の服飾類は、まさにこの家紋の形式が整う過渡期に制作されたものと考えられるのである。4.徳川家康所用葵紋付小袖類における葵紋の比較徳川家康所用葵紋付小袖の各作例について、葵紋の配置と直径および表出技法などを比較表に示した〔表1〕。ここでは試みに、前述した「紋散らしから五つ紋への流れ」の仮説に沿って、諸作品を葵紋散らしの意匠から、五つ紋へと並べることとした。まず、〔表1−1〕に挙げた浅葱地葵紋散辻ヶ花染小袖(徳川美術館所蔵)では、全て同じ表現の葵紋を全体で40か所以上に配している。各紋は全体に満遍なく配置されるが、特に上半身には背縫いを中心としてシンメトリーに紋を配する意識が見ら― 443 ―五つ紋全てが整然と上向きに配されており、紋章としての五つ紋を認識し、意識的に散らし紋とは差別化した表現であることがわかる。小袖において、五つ紋の位置が固定し、散らし紋との差別化が確立した時期を示すものとして、注目すべき作例である。現在、徳川家康所用あるいは家康より拝領とされる服飾類のうち、葵紋が付されている作例は、胴服・羽織・小袖類など20領ほどが知られている。これら家康所用の葵紋付服飾類については、特にその葵紋が比較的自由な位置に配されている点が注目される。当代の葵紋の配置について、長崎巌氏は「桃山時代から江戸初期にかけて、紋章としての葵紋の形式が次第にでき上がってゆく過程で、特に家康関連の服飾品において、模様としての葵紋散らしから紋章としての葵紋に至る様々な形式が見られる」とし、さらに、五つ紋の位置といった形式が定まる以前、桃山時代でも初期に近いほど紋は散らし模様に近い扱いをされることを指摘している(注14)。このような紋の形式化の流れをより明確化するため、本稿では以下、先にとりあげた2作例を中心として、現存する徳川家康所用葵紋付小袖類の比較検討を試みたい。
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