注⑴ 武家諸法度「衣裳之品不可混雑事」の条(法制史学会編『徳川禁令考 前集第1』創文社、1959年、62頁)。元和元年「衣服之制」(国史大系編修会編『徳川実紀 第2篇』吉川弘文館、1976年、281頁)。⑵ 徳川義宣「桃山時代の衣服─新出史料徳川家康所用─」『金鯱叢書 第5輯』徳川黎明会、⑹ 徳川義宣「徳川家康の衣服─小袖・胴服・羽織・能小袖─」『金鯱叢書 第20輯』徳川黎明会、― 445 ―⑶ 国史大系編修会編『徳川実紀 第1篇』吉川弘文館、1964年、63〜66頁。⑷ 前掲注⑵徳川義宣氏論文、702〜704頁。⑸ 袖幅等左右がある場合は、平均値を算出し小数点以下第2位にて四捨五入した。以下、実測寸⑺ 神谷栄子「小袖」『日本の美術67』至文堂、1971年、28〜35。は、全ての葵紋は外円が萌葱、葉は浅葱による彩色で統一され、直径は5cmと先の6作例と比較して小型化していることがわかる。更に、慶長15年(1610)下賜との伝来を持つ〔表1−8〕白練緯地松皮菱竹模様小袖(東京国立博物館所蔵)と、〔表1−9〕紺地葵紋付宝尽小紋小袖(紀州東照宮)では、葵紋は全て白抜き地に浅葱のみの彩色で統一され、葵紋の径も3〜4cm台まで小型化している。ここに到り、江戸時代以降に正式な紋として定着した白抜きの五つ紋の基礎が完成しつつあることがうかがわれる。以上のような徳川家康所用葵紋付小袖類の葵紋の比較からは、桃山時代から江戸時代初頭において、小袖全体に葵紋を散らす紋散らしの意匠から五つ紋への定型化の流れの中で、葵紋の彩色が無彩色へと統一されるとともに、紋の径が10cm前後の大型なものから径3cm程にまで小型化する流れが浮かび上がってくる。さらに、葵紋の表出技法については、縫い絞り、または縫い絞りと描絵の併用から、描絵のみへと変遷し、時代が遡るほど、葵紋は意匠の一部として捉えられ、葉には自然な表現として病葉や白露が表されていたであろうことが想定できる。このような葵紋の変遷の把握は、紀年銘などの記されることのほとんどない服飾類において、制作年代および使用年代を類推するための一助となり得ることも期待できるだろう。近世初頭において徳川幕府の諸制度を整えるにあたり、武家服飾に関する規定は重要な一要素として形式化が進んでいった。ここに指摘したような、その最初期の形式化の流れと、法制度に明文化され得なかった成立過程の一端は、徳川幕府の方向性を熟考していた最高権力者である徳川家康が所用した服飾類に関してさらに分析検討を重ねることで、より明確化することが期待できると考える。1978年、697〜706頁。1993年、423〜426頁。法は同様とする。
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