鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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3.芝居絵屏風の制作年代について絵金は天保14年(1843)の時点までは「林金蔵」として土佐藩御用絵師を務めていたが(注10)、翌年には「弘瀬柳栄」と名乗っている。通説ではこの間に贋作事件が起きて御用絵師を辞し、その後10年ほど諸国を放浪した後、芝居絵屏風を大成するに至ったとされている。― 465 ―今回の調査では制作年代判明の手掛かりを得るため、絵馬や銘記のある芝居絵屏風の保存箱などについても記録をとった。作品やその周辺の資料から制作年代が判明したものを挙げると、⑴ 嘉永4年(1851) 絵馬「釜淵双級巴」(7点)  高岡郡佐川町(〔図11〕)⑵ 安政4年(1857) 横幟(箱書)         高知県立歴史民俗資料館⑶ 安政5年(1858) 芝居絵屏風(箱書、現在滅失) 南国市片山⑷  同年     芝居絵屏風(箱書)      高知市朝倉⑸ 文久元年(1861) 芝居絵屏風(箱書)       香南市香我美町⑹ 文久2年(1862) 芝居絵屏風(箱書)      香南市香我美町⑺ 慶応2年(1866) 絵馬「仮名手本忠臣蔵」    安芸郡安田町⑻ 明治7年(1874) 芝居絵屏風(箱書)      高知市東秦泉寺⑼ 昭和6〜9年(1931〜33)          芝居絵屏風(5点、裏書)   安芸市川北となった。今回資料によって確認した⑴は絵馬作品としてはあまり例を見ない『釜淵双級巴』の7つの場面を連作としたもので、奈半利町にある絵金の弟子・広田竹甫の子孫宅や、絵金蔵に収蔵する香我美町吉川家所蔵白描群に酷似した下絵が確認できる〔図12・13〕。⑴はこれらの図柄を簡略化して描いていること、またその形状や数場面を連続した作り方は絵馬提灯(注11)によく見られる特徴であり、本作は絵馬提灯用の下絵をもとに制作された可能性がある。また⑹も南国市片山に酷似した芝居絵屏風が存在するが、いずれも絵金の筆致ではない。これらの作例から弟子たちが絵金の作品や絵手本を写し、地元に持ち帰って自分の仕事に活用していたことが窺える。他にも各地で筆致にバリエーションのある下絵が多く確認されており、こうした仕事が県下で盛んに行われたものと見ることができる。⑴は明らかに絵金の影響が窺える作品で、その作風を受け継ぎ闊達な筆捌きを見せている。御用絵師を辞して7年後、絵金40歳にあたる嘉永4年(1851)の時点で弟子たちによる制作がここまで展開されているところを考えると、嘉永年間の終わりから

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