4.弟子について絵金の弟子については、高知市にある絵金の墓碑に「門人受業者数百人」と記されており、その人気と芝居絵の需要が窺える。実際に名前が知られている絵師は現時点で21名を数え(注12)、そのほとんどが紺屋や絵馬屋を職業とする職人絵師である。近森敏夫氏は絵金の人気が高まるにつれ需要に応じるための手段として、弟子たちとともに絵金監修の制作グループを組織したと述べている(注13)ほか、諸氏によって絵金工房の存在が指摘されてきた。― 466 ―安政初年にかけての間と見られていた芝居絵屏風が生まれる時期を今少し溯らせる必要を感じる。弟子たちが描く芝居絵屏風県内各地に残る芝居絵屏風はほとんどが作者不詳であり、絵金のほかに作者が判明しているのは河田小龍(注14)と彼末堤馬(注15)、野口左厳(注16)の3人の弟子に過ぎない。今回得た調査資料を精査した結果、その作風から具体的な作者を特定することは困難であった。従ってまずは上記3人の絵師の特徴を見ていきたい。河田小龍の描く芝居絵屏風〔図14〕及び彼に影響を受けた作品は弟子たちの作品群のなかで最も多い。その作風は絵金のそれとはまったく異なり、既に指摘されている色調の抑制化や構図の整理化(注17)の他にも、絵金と違った顔のパターンの使用〔図15〜17〕、鼻筋を白く塗る表現があることなどが挙げられる。衣文線については絵金に比べて厚みがあり、直線的で絵金よりも肥痩が少ない。また絵金が用いたような茶色がかった墨を使用した作品もあれば、黒々とした滑らかな墨を使用した作品もある。おそらく小龍は絵金と異なる画材は絵金工房の外で使用し、工房を出入りしながら比較的自由に芝居絵屏風を制作し、独自の表現を目指していたのだろう。絵金と小龍の師弟関係についてはこれまでにも言及されており(注18)、香美市土佐山田町個人蔵の襖絵における共作や、同町八王子宮手長足長絵馬台で共に芝居絵屏風が並べられるなど、仕事上のつながりを示す作例が伝えられている。今回の調査で香美市香北町橋川野において絵金が「鵺退治図」、小龍が「小舎人五郎丸、曽我五郎の図」を同寸の絵馬に描き、同年に奉納した作例が確認された。両者の関係については今後調査を続けながら、稿を改め再考したい。彼末堤馬の芝居絵屏風〔表1−154〕、及び〔図18〕(注19)は絵金に比べると全体的に緊張感が欠け、線もぎこちなく安定感に欠けるが、それでも絵金の特徴を理解し、
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