鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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注⑴ 高知県絵金保存調査報告書『土佐の芝居絵─絵金及びその後裔』高知県教育委員会、1996年⑵ 鍵岡正謹「絵金考」『絵金』高知県立美術館、1996年⑶ 大久保純一「絵金 幕末土佐の芝居絵」『幕末・明治の画家たち─文明開化のはざまに』ぺ― 468 ―絵金の系統、小龍の系統は、特に分布の偏りがあるわけでなく、一地区の中にこの二つの系統が混在しているところが多いことから、芝居絵屏風を依頼した氏子たちの多くは特に作風にこだわりを持っていなかったと思われる。吉村淑甫氏はこれらの芝居絵屏風が地区の豊年や繁栄を占う「絵競べ」に用いられ、その判定者は氏子代表であり必ずしも絵画知識を持たない者であって、いかに神と共演するものであるかが判定の眼目であったと指摘している(注21)。各地の作風が実にバラエティーに富んでおり、絵金の絵に倣うというよりはそのエネルギーを受け止め、各々が各々のスタイルで展開されたのは、こういった背景もあったからだろう。ともかく絵金も弟子の制作においては描法に細かな指示をせず、相当に自由な表現を許している。安村敏信氏は北斎一門について、北斎画風をそのまま受け継いだ者と独自な画風を築いた者の2種類の弟子が存在し、弟子が粉本から離れ独自の画風に進むことを許容する一方、北斎画風を巧みに受け継いだ弟子は北斎の手伝いや代筆をうけた可能性を指摘しているが(注22)、絵金についても同様で、絵金が弟子の補筆をしていたと伝わることから考えても、さらに自由度の高い状況だったといえるだろう(注23)。おわりに本研究において作品の細部や周辺の情報を収集し得たことにより、これまで困難であった芝居絵屏風の制作年代の推定や絵金個人の作風の変遷、また絵金工房の自由な制作活動について言及することができた。なお今回紙幅の都合上、図版を示すことができなかったが、各作品及び祭礼の分布地図を作製すると、やはり名前の知られた弟子たちがいた地域を中心に作品、祭礼の分布が認められることが分かった。しかしながら、吾川郡いの町と高知市鴨部、全くの同図である香南市赤岡町と高知市朝倉の作品のように(注24)、明らかに同じ作者もしくは作者集団による作品が離れた地域でも確認されることから、各地の工房における活動は分布域のなかで広範に展開されたものと見られる。りかん社、1992年⑷ 前出。注⑴参照。

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