鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 475 ―ンダへの軍艦発注の進捗状況確認、ならびに同国の海軍関係調査のために、榎本武揚、沢太郎左衛門、赤松則良らとともにオランダ留学を果たしている(注4)。オランダ留学生達は、留学先で海軍関連の技術や社会科学、医学等を学んだ。内田は帰国後、新政府に転じ、大学南校で蘭学を講じたり、オランダの教育体制を報告した『和蘭学制』(開成学校出版、明治2年(1869))を刊行するなど、教育行政府に深くかかわった。また、世界各地の地理と国の事情を紹介した『與地誌略』(初■、大学南校刊、明治4年(1871))はベストセラーとなり、何度も版を重ねたことが知られている。日本近代美術史上、内田正雄の存在は大きな意義を持つ。冒頭に言及したように、内田が在蘭時に入手した美術品や資料は、幕末・明治初期の日本における、実質的に初めてもたらされた最初の西洋近代美術であったからだ。3000点を超える膨大な写真資料は『万国写真帖』(Photographisch Wereld Album、21冊、東京国立博物館蔵)として伝えられているが、その中には西洋絵画作品や美術館内部景観も含まれており、これが実質的に最初の本格的な西洋近代美術体験と言えるものかもしれない。しかし、これは『與地誌略』の参考図版として用いられることはあっても、基本的に内部資料として扱われていたもので、それほど公開されていたものではない(注5)。それ以上に大きなインパクトを持って受け入れられたのが、内田が持ち帰った絵画資料のほうであった。内田は、持ち帰ったこれらの作品を自邸に飾り、来訪者にしばしば見せていたという。それだけでなく、内田所蔵の油彩画は一般の人々の目に触れられる機会もあった。東京・九段坂上で大学南校物産局が開催した「大学南校物産会」(明治4年(1871))をはじめ、明治初頭のいくつかの展示会で展示されている。東京国立博物館が所蔵する『明治辛未物産会目録』には、内田正雄が7点の油画額を出品しているとの記載があり、彼が所蔵した油彩画などの額作品が展示されていることが伝えられている。内田所蔵の西洋油彩画に対するインパクトがいかなるものであったかは、山本芳翠や小山正太郎が語っている有名な報告から想像できる。明治36年(1903)の『美術新報』第2巻第10号、小山正太郎は内田正雄将来絵画について、以下のように語っている。「其時分に唯一の手本、まづ標準として進むべき洋画は内田正雄の和蘭から持つて帰つてこられたものなどです。此絵はいま渋沢さんの所有に帰しているものが十枚許りありますが、是は執れも今日から見ても日本で一寸外にない佳い画です」(「先師川上東崖翁」㈢より)。内田将来絵画からの影響の強さを自ら語っているのが、日本近代洋画の始祖というべき高橋由一(1828−1894)である。内田の大学南校の同僚であった由一は、和蘭か

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