3.藝大美術館所蔵オランダ水彩画群内田正雄将来の油彩画群の詳細は、出品目録に見える画題以外、全く明らかになっていない。前述の小山正太郎が伝えるように、「渋沢さん」すなわち渋沢栄一の手に渡ったとされるが、これらは空襲で焼失したとされ、その図柄をうかがい知ることはできない。― 476 ―らもたらされた油彩画、水彩画などを見るために内田宅をしばしば訪れ、絵画論も聞いていた。由一の『履歴』には、「推参シテ懇親ヲ結ビ、時々往来シテ絵画を観、又画説ヲ聞キ、大ニ悟ル所アリ」と伝えられている。このようなコメントは、松岡寿や荒木寛畝といった、明治初期を代表する画家たちも残していることから、内田正雄所蔵の絵画は当時、間違いなく強い影響力を持っていたのである(注6)。しかし、その様子の一端を窺わせる資料として明らかになったのが、藝大に所蔵される西洋近代水彩画群である(注7)。これは、東京藝術大学美術学部の前身である東京美術学校の時代に、明治初期に活動した洋画家、中丸精十郎(初代、1840−1895)が所蔵していた12点の小型の水彩画群で、同名の息子(二代、1873−1943)を通じて東京美術学校に寄贈されたことが伝えられている(注8)。この水彩画群の存在は以前から知られていたが、それは主として、日本の水彩画家の大下藤次郎(1870−1911)に影響を与えた参考品としてであった。しかし近年の調査で、これらの水彩画群が、明治35年(1902)に東京・上野で開催されていた第7回白馬会展に「参考品」として出品されていたことが判明した。この根拠となったのは、当時の新聞紙上に掲載されたいくつかの白馬会展評での言及である。そこでは、中丸精十郎が参考出品した水彩画が、「クレープの希臘風景、ハツクイゼンの森の道、牧場、ボスニーの古市街、ヴァン、インゲンの瀧、ブリウクの河辺、デベンテルの海」(「上野谷中の展覧会㈤」『読売新聞』明治35年(1902)10月14日)といった、画家名と作品の概要を示す情報が記されているが、これらはほぼすべて、東京美術学校の所蔵資料の最も古い記録が記載されている物品管理原簿上の作者名、作品名と完全に一致することが確認された。上記の「ブリウク」という作家についても、この原簿上では「レイツセンブリウク」と記載されているが、同じ画家と考えてよいだろう。これらの記録上の一致は、藝大作品群と白馬会第7回出品作とが同一のグループのものであることを証明していると言える(注9)。これらの水彩画と内田正雄資料との関連を直接的に示すのが、別の新聞の展覧会評に記された文言である。「…参考室の和蘭人の水彩画は頗る面白いものである。是は
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