4.内田正雄在蘭期のオランダ絵画の状況内田正雄の在蘭期の活動のなかで、現地の美術に魅了され、現地で画家について学んでいたことは、これまでのさまざまな調査研究のなかで報告されている。留学仲間によれば、「(内田は)…追々土地に居馴染ンで、油絵を屢々見るに付け(中略)、油絵師について熱心にその技術を研究した」(注10)。また、松平春嶽によれば、内田は自身所有のオランダ絵画について「私和蘭國留学中、油絵かき有名の先生ニ面会して油絵を頼たれハ、彼よろこんて承諾せり・・・」と語ったとあり(注11)、現地の画家との弱からぬコネクションがあったことを思わせる。これらのことから、内田により明治初頭に大学南校の物産会で展示されていたものは、少なくともオランダ派の現地の画家の作品であったのではないか、と推測される。しかし、この記述が、内田正雄がオランダに滞在した1860年代中頃のオランダの美術、より具体的にはハーグの美術動向と関連付けて考察されることは殆どなかった。― 477 ―昔年故内田正雄氏が和蘭留学中に買い求めたものださうだ」(「白馬会展覧会素見記(下)」『東京朝日新聞』明治35年(1902)10月14日)。展覧会評の記事の中で、この水彩画の旧蔵者として内田正雄を挙げているのはこの記事だけである。そのため、藝大所蔵の水彩画群を、内田正雄がオランダで収集した作品の一部、と確定するに足る物的証拠が不足していると思われるかもしれない。しかしこの二つの事項を結びつける強力な「状況証拠」はいくつも提示することができる。それは、内田在蘭時のオランダ画壇と、内田旧蔵品の直截的な関係である。では、具体的に藝大所蔵水彩画には、19世紀中ごろのハーグ画壇との関係を、どの程度見出しうるものだろうか。結論を先に言えば、いくつかの作品でそれが可能である。稿者は以前の調査のなかで、白馬会展覧会評記事で記載されている「ハツクイゼン」と「デベンテル」、「ブリウク」の作者について、作品に見える署名、ならびに作品様式分析に基づいて、それぞれユリウス=ヤーコブス・ファン・デ・ザンデ・バックハイゼン(Julius-Jacobus van de Sande Bakhuyzen, 1835−1925)、ウィレム・アントニー・ファン・デフェンテール(Willem Antonie van Deventer, 1824−1893)、そしてヤン・ヘンドリック・ヴェイセンブルフ(Jan Hendrik Weissenbruch, 1824−1903)と作者同定している(注12)。これらの画家はみな、ハーグを中心に活動した、「ハーグ派」の画家であった。いうまでもなくハーグ派とは、1850年代からハーグを拠点に活動した画家グループであり、バルビゾン派がフランスで起こったのと時期を同じくして、美しいハーグの
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