5.今後の課題内田正雄が日本近代美術史研究の文脈で重要な人物であることは以前から明らかであったが、19世紀のオランダ画壇との関連性については明らかにはされてこなかった。今回の調査によって内田正雄将来品とハーグ派との関連がより明らかになったが、内田が語った「油絵師について熱心にその技術を研究した」という、現地画家のもとでの指導状況までは明らかにすることはできなかった。19世紀中ごろのハーグは、ハーグ王立美術学校という伝統的な美術学校が存在する一方、私的な芸術家協会であるプルクリ・スタジオ(The Pulchri Studio)も結成されている。しかし、現状までの調査では、一次史料として内田との関連を示す記録の存在は、確認されていない。― 478 ―海景や牧歌的な田園風景、そして日常生活の光景をリアリスティックに描き出したことで知られている。そして、現時点において藝大所蔵水彩画で名前が同定されている作品─ファン・デ・ザンデ・バックハイゼン、ウェイセンブルフ、デフェンテール─は、このグループに属している。内田旧蔵水彩画には、オランダ以外の画家の作品も多少含まれているとはいえ、内田がこのハーグ派のグループにコネクションを持ったことは容易に推測される(注13)。ここでは紙面の都合上、一点の作品に限定して、この推定の蓋然性を高めることとしたい。藝大所蔵水彩画の一点に、作者C. R. による「戦場」と記されたものがある(〔図1〕、所蔵番号:西洋画112)。横長の紙面に、荒涼と広がる戦地に、兵士たちが描かれている。画面中央に戦況を話し合う一群の兵士たちを配する一方、画面右下側には騎馬兵たちの控える姿が描かれている。この図については、殆ど作品にかかわる情報が確認されていなかったが、署名の形状が、ハーグ派の画家であるシャルル・ロフセン(Charles Rochussen, 1814−1894)のそれと一致していることが明らかになった。ロフセンはおもにアムステルダムを拠点とし、ヨハン・バルトルト・ヨンキント(Johan Balthord Jongkind, 1819−1891 )やヘラルト・ビルダース(Gerald Bilders, 1838−1865)らとともに活動していた画家である。藝大所蔵の作品は、その二年ほど前に描かれた《カスティリクムでの戦闘》(〔図2〕、1864年、油彩/カンヴァス、アムステルダム歴史博物館)(注14)の場面設定、すなわち、画面を水平に横切る地平線、中央に小高く盛り上がった丘に主要人物を配するという人物配置に類似性を見出すことができる。内田正雄が帰国するその年にこの作品を入手した経緯については全く伝わっていない。しかし、作風の関連性から高い蓋然性を持つものといえるだろう。
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