2、オルレアン家の蔵書に見る植物装飾の創意源『M時祷書』に認められる地中海世界に特有の果樹、そして多数の果実採集の図像の創意源を探求する上で、まず着目すべきであったのは、『健康全書』(Tacuinum Sanitatis)との接点であった。11世紀のアラビア医学書をもとにして作成された当該写本には、健康の為に役立つ植物、食物、及び様々な日常の雑事に関する諸規則事項が記されている。そして、多彩な果実採集図像を含む作例が、主に14世紀末から15世紀初頭にかけて、ミラノをはじめとしたロンバルディア地方において制作されていたのである(注13)。― 483 ―年代末のフランスにおいて、イタリア彩飾写本の影響過程を明らかにするのは断じて容易ではない。写本画家や彩飾写本が両国間を頻繁に往来した15世紀冒頭、或いは同世紀半ば以降とは異なり、1420年から30年代に制作されたフランス写本において、イタリアに特有の彩飾様式や図像影響は殆ど認められないのである。無論、イタリアとの近接地域では、写本彩飾様式、図像上の影響が不断に認められる。しかしながら、M画家が『M時祷書』を彩飾した地として推定されているのは、ブルターニュ地方、或いはその周辺地域である(注9)。ここで留意すべきであるのは、同じく1430年代にブルターニュ地方で彩飾されたジャン・ド・モントーバン、アンヌ・ド・ケランレイ夫妻によって注文、所有された2写本である〔図3〕(注10)。同一画家によって彩飾された当該2写本の図像体系や装飾モチーフには、14世紀末にミラノで活躍していた、ジョヴァンニーノ・グラッシによる『ヴィスコンテイの時祷書』(Les Heures de Visconti)の影響がうかがえるのである(注12)。ここで、ジャン・ド・モントーバンの母親が、ミラノ出身のボンヌ・ヴィスコンテイであったことを想起すれば、イタリア写本彩飾様式が、彼女の蔵書を介して伝播した、と考え得るのではないだろうか(注11)。このような見地において、『M時祷書』の当初所有主であるマルグリットの母、ヴァレンティンもまた、ミラノのヴィスコンティ家出身であった事実を想起することは重要である。更に、ヴァレンテインが1389年のルイとの婚姻の際に多数の写本を伴ってきていること、そしてその後も政治上の諸問題により、ルイがミラノに頻繁に赴いていた事実に着目すれば(注12)、夫妻の蔵書のいずれかが娘のマルグリットに贈与され、画家の新たな着想源となり得た可能性が推察できるのである。しかしながら、マルグリットが所有していたことが現在確認されている写本は、1400年ごろにパリで彩飾された『歴史物語聖書』(Bible historiale)(注14)、そして彩
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