鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 484 ―飾が一切施されていない叙情詩集に留まる(注15)。ここに『M時祷書』における植物装飾の影響源はおろか、イタリア写本彩飾様式の伝承経緯を求めることは不可能である。同様の事態は、ルイ、ヴァレンティン夫妻の蔵書にも指摘出来る。一方、夫妻が所有していた写本を基盤とする、彼らの長子、シャルルの蔵書が、しばしばマルグリット、リシャール夫妻に貸与されていた事実を踏まえれば、その目録に『健康全書』が見出せる事は看過できない(注16)。しかしながら、当該写本が、イギリスに捕囚されていたシャルルによって1435年に購入されてはいるものの、フランスでその存在が確認できるのは、1440年にブロワで作成された蔵書目録に限られる為、1430年代にM画家が携った『M時祷書』の植物装飾との関連性を問えないことが明らかとなった。『健康全書』をはじめとする、イタリア彩飾写本に『M時祷書』との接点を求める過程において、次に注意を喚起したのは、果樹、及び果実採集の表象形態である。同一主題図像の比較調査によって、『M時祷書』の植物装飾間における時節的、地理的不一致に加え、異なる植物種の作為的な混同、更には非現実的な果実採集風景には、他の写本のモチーフを複写した形跡は認められないことが判明したのである〔図2、4〕。このような傾向が、拙稿者の博士論文で既に解明されていた、象徴表現としての、植物の意図的な装飾要素選択と、その配置法に合致することは、M画家が果樹のモデルだけを求め、象徴表象のためにその転成を図ったのではないか、との推察を促した。こうした見地から、シャルルがイギリスに捕囚されている期間も、絶えず管理され、貸与、売買が行われていたオルレアン家の豊かな蔵書に(注17)、今後更に『M時祷書』との関連性を求める意義は否めない。当時の医療を担う薬草の知識がアラブ世界からイタリアを経由して、フランスへともたらされていた史実を考慮すれば、医療に関心を寄せていたシャルルの蔵書を介して、地中海世界に特有の植物形態表象、あるいはその見識が伝承されたことが、考え得るのである。更に、イギリスとの戦火を避けてシャルルの蔵書が移管されていたラ・ロッシェルが(注18)、マルグリット夫妻の領地であったクリッソンに近接しているという事実や、1428年からの約10年にわたる蔵書の移管期間が、M画家が『M時祷書』の彩飾に従事していた時期と見事に重なることを考慮すれば(注19)、このような調査に、植物装飾の創意源のみならず、未だ議論の余地を残している、ブルターニュにおける写本画アトリエ存在の問題解決を許す、重要な鍵が隠されている可能性がうかがえるのである。

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