2.善応寺(仙台市宮城野区)十一面観音菩薩立像〔図11〕 木造・一部漆箔(後補)・玉眼(後補) 1軀 像高(現状)179.0cm江戸時代の元禄10年(1697)、善応寺の前身である聖徳寺の開堂にあたり、当時すでに廃寺となっていた陸奥国胆沢郡黒石村の長谷寺に伝えられた慈覚大師手刻の伝えを伴う古像を修理し、本尊に迎えたという(注4)。今回の調査により、初めて保存状態を詳しく確認することができた。― 491 ―制作年代は、これまで古い時代の技法を継承していることを確認しつつも10〜11世紀頃とされていたが(注2)、少なくとも本像については8世紀末頃を中心に捉えなおされるべきであろう。仙台市の十八夜観世音堂に伝わる菩薩立像〔図6〜10〕は、像の各部法量(注3)のほか、カヤと同定された材質、木心を肩口辺に籠める一木彫で内刳りを施さない構造技法、三面に冠飾を表す形式(正面欠失)、胸下で強く括る体つき、肩を引いて上半身を反らせながら頭部を垂直とする側面観などが、本像とよく共通する。一方で、本像と十八夜観世音堂像では天衣の着け方に違いがあり、十八夜観世音堂像は両肩から垂れる天衣の片方を正面、他方を背面へと渡している。この形式は、東北地方では福島県勝常寺の菩薩形作例をはじめ平安時代前期までの作例に多くみられるが、本像では九州地方の平安時代作例に多い、天衣を体前に渡さない形式となっている。両像はよく似通うものの、東北と九州それぞれの地域で制作された可能性を念頭において良いと思われる。その前提にたつならば、両者の近似は制作年代に留まらず、造像の経緯や発願者、制作者に至るまで遠く東北と九州で相通ずるような歴史的環境が存在したことを予測させる。近畿地方との関わり、特に近年研究が進む国分寺のような官寺僧のネットワークとの関連の中で考察すべき事象と思われる。また、本像を含む天福寺奥の院伝来の木彫像の多くに、頭部正中線上、菩薩像であれば天冠台の菊座形飾り中央に小孔が設けられている点にも注目される。十八夜観世音堂像の同じ位置にも小孔が確認されており、深さは約2cmに及んでいる。装飾品を留める釘孔のような痕跡としては深すぎるため、例えば唐招提寺の木心乾漆菩薩立像の胸部に小珠が籠められていたように、何らかの納入物が存在したか、両像に彫刻されていない白毫に代わるものとして水晶などが嵌入された可能性が考えられないだろうか。内刳りのない一木彫像の頭部に、当初から異物が納入ないし嵌入された例は判明していないが、検討の余地があると考えている。
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