3.黒川神社(黒川郡大和町)金剛力士立像〔図12〕 木造・彩色(現状) 2軀 阿形像:像高(現状)225.0cm吽形像:像高(現状)223.0cm昭和60年に解体修理が行われており、像表面はその際に施された紙貼り下地と彩色に覆われている。修理時の記録写真によれば、吽形像の頭部内、平らに削られた面部矧面に永享4年(1432)の再興銘が墨書されており、「再興勧進之沙門比丘 長全 并大工比丘 清安 及一紙半銭之諸檀那等 永享 二二年八月四日」と読める。幹部材に直接墨書されることから、はじめこれを再興造像の銘と考えたが、修理銘とみて制作時期を14世紀、鎌倉時代後半〜南北朝時代まで遡らせても遜色ない(注5)。― 492 ―頭体幹部は、髻を除く地髪頂部から地付までケヤキとみられる1材製。ほぼ中央に木心を籠める。背面で後頭部および下半身に内刳りを施し、蓋板(後補)をあてる。以下は全て後補である。頭部では面部と左右両側に各1材、計3材の板状材を矧ぎあわせ玉眼を嵌入する。白毫水晶製。髻、頭上面のすべて、両肩先、天衣遊離部、両足先、両足■、背面下方〜地付辺りに各別材を剥ぐ。冠・胸飾各銅板製。肉身部に漆箔を施す。台座・光背・持物も全て後補である。従来、頭部は三道で切断されているのではないかとみられていたが、像中央部に当初材をのこし、あたかも面を被るように修理されていることが判明した。全体に朽損があるため、おそらく面部も同様であったのだろう。しかし漆箔仕上げは肉身部のみに施し、着衣部には手を加えないなど、当初材を出来る限り活用しようとする意識も看取できる。由緒ある像であるが故の処置であったかと想像される。もと陸奥国栗原郡に伝えられ、元禄9年(1696)に仙台城下の龍宝寺(仙台市青葉区)へ移されたという清凉寺式の釈迦如来像とともに、当時の藩主・伊達綱村による霊像保護の一環と見なすことができよう。記録写真から判断される像の構造は2軀でほぼ同様である。幹部を前後左右4材矧ぎとし、そのうち前側の1材から頭部の大半を彫出し、矧面を削りだした上で面部材を矧ぎ足す。従って面部を除けば頭部に内刳りがない可能性がある。両肩先を別材とし、踏み出す遊脚は少なくとも縦2材を矧ぎ寄せる。反対に吽形像の力脚は挿し込み矧ぎとするか。2軀ともに髻は後補とみられる。注目されるのは、2軀がともに天冠台を着けている点である。その概形が阿形で花形、吽形で直線的になっている点は、例えば丹生都比売神社伝来の行道面のうち1対
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