鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
506/620

7.個人蔵開眼誠述(注7) 雲居希膺筆紙本墨書 1冊 縦35.3cm×横25.3cm瑞巌寺中興・陽徳院開山である雲居希膺(1582−1659)による著述。雲居自身が導師を務めた、伊達政宗夫人・陽徳院田村氏(陽徳院殿栄庵寿昌大姉、1568−1653)の寿像開眼法語などを収めた史料である。― 495 ―意頭形をなす台板を置いた上に千手観音立像が安置される。厨子外から見ると、ちょうど光宗像の頭上に千手観音像が現われる構成である。最前列の神将形像2軀は肉身が赤または緑で彩色され、他の5軀および光宗像は身色を白色とする。これらの神将形7軀は、光宗の死に殉じた7人の家臣を表していると伝えられ、霊屋周囲には実際に殉死者の供養碑が建てられている。前記の身色のほか、金剛杵・金剛橛といった持物や、裸足像を含む点など7軀の構成は極めて特殊と思われ、四天王や十二神将、二十八部衆といった神将形群像のいずれにも当てはめることができない。伝えに従って、7人の殉死者に何らかの意味が付され神将の姿で厨子内に祀られたとみるほかないであろう。こうした殉死者の表現について、例えば4人の殉死者とともに描かれる留守政景像(慶長15年(1610)賛、岩手県 大安寺蔵)では、像主とともに長裃姿の肖像となっている。彫像による例、ましてや神将形に姿を変えて表された例は、管見では見当たらない。千手観音を共に安置している厨子内を仏菩薩の世界として、殉死者はその守護者と位置づけられたとみるべきであろうか。とすれば、中央の光宗は千手観音の垂迹身として意識的に祀られたと考えることもできるだろう。本群像に構成や制作時期が近い例としては、慶安5年(1653)輪王寺大■院の徳川家光廟において本殿以下の各建造物内に安置された四天・四夜叉などの群像がある。本群像はそれに先行し、姿を変ずるとはいえ殉死者をも彫像として祀った珍しい例といえる。続く7、8は松島町の瑞巌寺に伝わる伊達政宗甲冑倚像および陽徳院坐像という、近世前期の仙台地域を代表する2軀の肖像彫刻に関連して調査を行った。寿像の開眼法要は、夫人の菩提寺である陽徳院が開堂された慶安3年(1650)2月前後から、本史料奥書より著述の下限とできる慶安5年(1652)3月の間に行われたと考えられる。史料では、夫人の実子である仙台藩2代藩主・伊達忠宗が「洛陽大工

元のページ  ../index.html#506

このブックを見る