― 502 ―㊼ ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「夜の絵画」について─そのテネブリスムの意味─研 究 者:ふくやま美術館 学芸員 平 泉 千 枝はじめに画家がこだわったテネブリスム(暗闇主義)の表現には、流行の様式という以外に、何らかの思想や意味性が込められていたのだろうか。伝統的に神や理性の光といった象徴的解釈が行われる「光」の表現に比べ、夜の絵画の「闇」の意味は充分に解明されてはいない。先行研究では、跣足カルメル会の修道士、十字架のヨハネ(1542−1591)の神秘思想の影響の可能性が指摘されたこともあるが(注3)、これらはあくまで示唆の段階に留まり、画家と修道会の接点や、思想と照らし合わせた作品解釈を具体的に行うものではなかった。そこで今回、特にこの点に焦点をあて、ロレーヌの古文書館や図書館に残された資料などから、ロレーヌにおける跣足カルメル修道会の軌跡をたどり、ラ・トゥールの夜の絵画との関係を検証した。ロレーヌにおける跣足カルメル修道会の展開対抗宗教改革期、プロテスタント地域へのカトリックの砦であったロレーヌ公国には多くの修道会が進出した。しかしラ・トゥールが宗教施設のために仕事をした例は、1624年にロレーヌ公アンリ2世が「聖ペテロの絵」を買上げ、公領の都市リュネヴィルのミニモ会修道院に捧げた例が知られるのみである。ミニモ会は4年前にリュネヴィルに進出し、トゥール司教の認可を受け活動を始めていた(注4)。ラ・トゥール自身はロレーヌ公国内にありながら、歴史的経緯からフランス王国の支配下にあったメス、トゥール、ヴェルダン三司教区領下の町ヴィック=シュル=セイユの出身であったが、リュネヴィル出身の貴族の娘と1617年に結婚したことを機に、1620年頃から同地に移り住んでいた。公国の首都ナンシーではなくその近郊に安住したのは、17世紀前半にフランス北東部、当時のロレーヌ公国で活動したジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593−1652)は、今日「夜の画家」(maître des nuits)と称される(注1)。これは画家がイタリアのカラヴァッジョや、その影響を受けたオランダのヘリット・フォン・ホントホルストらいわゆるカラヴァッジョ派の明暗画法で、夜の情景を繰返し描いたことによる。1630年代にローマやユトレヒトなどで流行が終息してなお、ラ・トゥールは晩年となる1650年代まで「夜」の絵画を生み出し、「夜の絵画に秀でた」という彼の代名詞は、郷里の記憶にとどまり続けた(注2)。
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