― 503 ―首都にはレイモン・コンスタン、1620年前後にイタリアから帰国するクロード・ドリュエ、ジャック・カロなどの画家がおり、宮廷で活躍したため、経歴に劣るラ・トゥールが競合を避けたとの見方もある(注5)。画家は死後遺書でリュネヴィルのカプチン修道会へ寄進を行ったが、これ以外に修道会と関わる信仰の記録は残されていない。またそもそも画家自身に関する記録はごく限られているため、今までにロレーヌで勢力を持った修道会派のコルドリエ会、イエズス会、聖母信心会などのラ・トゥール芸術への影響が推しはかられてきた。しかし画家の形成期を考えるときに、最も注目すべきなのが先述の跣足カルメル修道会ではないかと筆者は考える(注6)。跣足カルメル会は、スペインにおいて修道女アヴィラのテレサ(1515−1582)、修道士十字架のヨハネが16世紀中頃に設立した改革派修道会で、やがてフランスにも勢力を伸ばし17世紀前半に多くの修道院が新設された。ロレーヌ公国内ではごく初期の1611年に、ナンシーに男子修道院が設立され、初代院長にはイタリアから聖マリアのクレメント、続いて1614年にイタリア人の聖フランチェスコのセバスティアンが迎えられた。イタリアから直接指導者を受け入れた姿勢は、同年フランス系の修道士を迎えたパリの跣足カルメル修道院とは異なり、ローマ教皇庁に従順な土地柄を物語る。そしてこの招聘と修道院設立に尽力したのが、画家と地域的なつながりが深いロレーヌの名門ポルスレット・ド・マィヤン家であった。ポルスレット家は1618年のナンシーの女子修道院、1644年のメスでの男子修道院設立にも貢献し、跣足カルメル会の年代記で功績を讃えられている(注7)。画家とポルスレット家の関係を検証してみると、まず一家の長であったロレーヌ元帥ジャン(?−c1614)は、ロレーヌ公に仕える一方、画家の生まれ故郷、メス司教領のヴィック=シュル=セイユに置かれたフランスの行政機関バイイ裁判所の長官を務めた。二人の息子のうち、アンドレ(?−1623)はバイイ職を継ぎ、同名の息子ジャン(1581−1624)は聖職者となりローマで教皇パウルス5世らの信頼を得て、トゥール司教に任じられた(注8)。先述のミニモ会に認可を与えたトゥール司教は後者である。画家の青年期、ヴィックで知識階層の頂点に君臨していたのはバイイ長官に就任したポルスレット家であり、バイイ裁判所で1593年から1633年まで長官につぐ代理官の任にあったのが、婚姻で画家の従兄となるアルフォンス・ド・ランベルヴィレール(1560−1633)である。画家の結婚式にも出席したランベルヴィレールは、高い学識をそなえ画家との接点が明確なため影響が何度も論じられたが(注9)、一方ポルスレット家と画家との関係は今まであまり言及されることはなかった。だが上流との縁組によって画家としての地位確立を目指した若きラ・トゥールが、従兄と親交のあ
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