― 504 ―「暗夜」の思想の広まりる有力な一族や、彼らが力を注いでいた修道会支援活動を知らなかったとは考えにくい。1615年、ポルスレット家の尽力によってナンシーの跣足カルメル会修道院は転地し修道院の竣工式がロレーヌ公妃マルグリット・ド・ゴンザーガ臨席のもと盛大に祝われ、1622年にはトゥール司教のジャンによって聖母と聖ヨセフへの献堂式が行われる。若き画家には郷里の有力者と公家の支援する跣足カルメル会の姿はいやがうえにも意識されていったのではなかろうか。ロレーヌ公領内ではポルスレット家が直接関わった事例以外にも、跣足カルメル会修道院設立が続いた。1623年にはパリから来た修道女たちによってメスに女子修道院が設立され、1623年と27年にポンタ=ムッソンで男子、女子修道院設立、1629年にリュネヴィルにバーから女子修道院が一時移転し、1640年代からヴィック=シュル=セイユにも男子修道院設立の計画が進むが実現したのは画家の死後であった(注10)。修道会の進出とともにロレーヌには同会の修道士十字架のヨハネの「暗夜」の思想が伝えられたと推測され、調査の目的のひとつはその受容の実態を確認することであった。十字架のヨハネは対抗宗教改革期を代表する神秘思想家のひとりで、1570年代から80年代にかけて『カルメル山登攀』(Subida del Monte Carmelo)『暗夜』(Noche oscura)などの著作を残した(注11)。これらで特徴的なのが「暗夜」の思想である。主著『カルメル山登攀』のなかで、ヨハネは神と合一し神的な光に到達するために、魂が通らなければならない「暗夜」について修道者たちに述べる。「暗夜」の道程には段階があり、身体的諸感覚を全て放棄する「感覚の暗夜」、そして知性をも否定しなければならないとする「精神の暗夜」が続く。ヨハネにとって至高の神の存在は、人間の感覚、理性や想像力でもとらえられるものではなく、知識は理性の光をもって獲得されるが、信仰は理性の光を拒否してこの光なしに獲得されると説く。「暗闇に身を置かないなら、信仰の知識はわれわれに固有の光によって失われてしまう」(カルメル山登攀2−3)のである。また著作『暗夜』では、太陽に近づき目が眩む人のように、神の光はあまりに大きいもので近づけば近づくほど、人は盲目となり暗闇のなかに入っていくとも述べている(暗夜2−16)。十字架のヨハネの著作は、生前その思想が危険視されたこともあり1618年アルカラでようやく著作集が出版されるが、研究者ショネによってナンシー市立図書館にこのアルカラ版著作集が所蔵され、蔵書票から同書はポンタ=ムッソンついでナンシーの
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