鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
516/620

― 505 ―跣足カルメル会男子修道院に由来することが指摘されていた〔図1〕(注12)。僅かにしか現存しないこの最初期の著作がロレーヌにもたらされていた事実は極めて重要である。またナンシー周辺にはこの後1621年、1641年に出版されるフランス語訳を待たずともこれらを読み解ける人々もいた。その代表格がピエール・セガンで、かつてスペイン王フェリペ2世に仕えた経歴をもち、1605年から1636年に死去するまでナンシー近郊で隠遁生活を送り、スペインの神学書等をロレーヌの人々のために翻訳していたという。セガンは遺言で、自身が所有していたスペイン語の著作を、ナンシーのカルメル会の神父たち、修道女たちに寄贈したいと述べ「彼らのなかにはスペイン語を理解する方々がおられますので」との証言を残してもいる(注13)。また十字架のヨハネの「暗夜」の思想がよりロレーヌの世俗に浸透していたのではないかと思わせる例証も残されている。それが次に述べるアンベールの詩集の存在である。ロレーヌ宮廷で活躍した詩人アンリ・アンベールは、1624年にナンシーで『暗闇』(Les Tenebres)と題する詩集を発表した〔図2〕(注14)。詩集は「聖母の苦痛の夜」「聖ペテロの不幸なる夜」などの詩篇から構成され、我が子を失った聖母の苦しみや、キリストを否認した弟子の聖ペテロの悔悟が夜の闇に仮託して語られる。聖母は我が子を「太陽」「光」に例え、「夜よ、恐ろしい夜よ、深い暗闇よ、汝我らから世界を覆い、汝が行いをその手で隠してしまえるのか」と謳い、聖ペテロは「最も暗い夜のなかの夜、ランプの光の明るさも汝を打ち負かすことは出来ない、汝はその炎を遮ろうと、我が魂の夜をその闇にまぜてしまったのだから」と悔いる(注15)。いわば「夜」と「闇」が主題ともいえるこの印象的な詩集は、先述のロレーヌ公妃マルグリット・ド・ゴンザーガに献じられている。この詩集の存在を指摘したショネは、出版年にロレーヌ公がラ・トゥールの「聖ペテロの絵」を買い上げていることを指摘し、ラ・トゥール作品と詩の聖ペテロ主題との関連を重視したが、筆者はむしろ詩集と跣足カルメル会の根本的な関係性にこそ注目したい。今回の調査でナンシー市立図書館にある同著は、蔵書票からナンシーの跣足カルメル男子修道院が所蔵していたことが確認できた。同図書館にあるアンベールの他の詩集『聖週間』(Le Sepmaine saincte)にはミニモ会の蔵書票があり、ジャック・カロが装飾を担当した詩集『障壁での闘い』(Combat à la barrière)には修道会の蔵書票はない(注16)。1620年代前半ロレーヌ公家はナンシー、ポンタ=ムッソンでの跣足カルメル会設立事業に継続して関わっていたことを考え合わせると、やはり詩集『暗闇』は同会と関連して執筆され公妃に献じられた可能性が高い。アンベールが詩の中で用いる「暗夜(nuict obscure)」や「闇」の含意は、十字架の

元のページ  ../index.html#516

このブックを見る