鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 506 ―ヨハネが修道士たちに呼びかけたような高次な精神の修練の比喩ではなく、より直接的に恐怖や受難を暗示するものであり、両者の意味性には差異がある。しかし一方で、聖母が「太陽を見つけるために、炎をともすことは必要だろうか」と述べるなど、ヨハネの表現を連想させる文も散見されることも事実である。またこの詩集を考えるもうひとつの要素として、序文で詩人自身が述べているように、アンベールは盲目であり、失明の原因を以前の世俗的な詩作に対する神の怒りと考え、「私の眼の闇」に対していつか夜明けが訪れることを願っていた。文字通り闇に身を置く詩人にとって、ロレーヌに新たにもたらされた暗夜を経て神の光との合一にいたるとのヨハネの思想は、切実な救済だったのかもしれない。アンベールの闇の詩は、ロレーヌの文学界がスペインの神秘主義の暗夜の思想と出会い、独自の解釈をおこなった接点で生まれたものとも考えられる。そして同様の闇の思想の受容が、ラ・トゥールの「夜の絵画」に関しても起こったのではなかろうか。ロレーヌにおける跣足カルメル会と美術今回のロレーヌでの調査では跣足カルメル会の活動とともに、そこに所有された美術作品を調べることによってラ・トゥールとの何らかの関係が見いだせないかと考えていた。美術品の大半は戦乱やフランス革命時の没収時に失われてしまい、記録からわずかにナンシー、メスの修道院の装飾の様子が窺い知れるのみとなっている。次にこれらをみてみよう。まずナンシーの男子修道院については、1612年に附属教会の主祭壇のためにポルスレット家がカルメル会の創始者とされる「預言者エリヤ」の絵を画家コンスタンに注文し、1625年にはローマ帰りのドリュエが、天井画装飾を手掛けた。コンスタン、ドリュエらは穏健な画風で宮廷で活躍したが、彼らにとっても同修道院の仕事は重要なものであったようだ。ドリュエは同修道院から引き続き装飾の仕事を受ける一方、自らの帰依の姿を顕示するようにそこに礼拝堂を所有し、家族の絵を掲げてもいる。また同教会にはイタリアからもたらされたミラノ司教「聖ボロメオ」の絵画、ヴァン・ダイクまたはスピエール兄弟に帰属された12枚の使徒の半身像などもあった(注17)。つぎに、メスの女子修道院内部は、18世紀後半の記録によれば修道会が帰依した聖母マリア、幼子イエス、預言者エリヤ、アヴィラのテレサや十字架のヨハネの肖像や像などで彩られていた。この修道院には、マグダラのマリアや聖ヨセフに捧げられた礼拝堂が数多くあり、病室に近い礼拝堂には「聖ヨセフの死」が、またひとつには「聖ヨセフの夢」の絵があり、マグダラのマリアの礼拝堂にはバール・ル・デュック

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