― 508 ―「暗夜」の思想に直接触れ得る聖職者たち、そしてその周縁で「夜の絵」が受容されていたという事実が、ラ・トゥールの「夜の絵画」制作の背景にはあるのである。ラ・トゥール絵画の隠された光と暗夜の思想今回の調査ではロレーヌにおける跣足カルメル会とその暗夜の思想の広がりについて検証することが出来たが、最後にこれを手掛かりにラ・トゥールの夜の絵画に現れる特徴的な表現についての解明を試みたい。それは「隠された光」、つまりラ・トゥールの《書物のあるマグダラのマリア》〔図3〕、《生誕(新生児)》〔図4〕、《大工の聖ヨセフ》〔図5〕、《聖ヨセフの夢(聖ヨセフの前に現れる天使)》〔図6〕、《聖ペテロの否認》〔図7〕で特徴的に見られるような、書物の頁、そして登場人物たちが自らの手で、重要な要素である画中の炎を隠してしまう表現である。こうした表現については北方のカラヴァッジョ派の画家たちに先行例があり、いわゆる技量の誇示との可能性も指摘される(注24)。一方同時代には、イエズス会士ヘシウスの『聖なるエンブレム集』(1636年)〔図8〕にみられるように、「終わりの時に現わされるように準備されている」(ペテロの手紙1−5)などの言葉が付された覆われた蝋燭の図も存在しており(注25)、ラ・トゥールの時代の鑑賞者は、覆われた光に深い宗教的含意を汲みとれた可能性も高い。それでは何故ラ・トゥールの夜の絵画は、これほど様々な場面で炎を覆ってしまうのだろうか。例えば《聖ヨセフの夢》では、燭台の根元には蝋燭消しの道具が描き込まれ〔図6〕(部分)、天使の袖が炎を多い、更に目を閉じた聖ヨセフは、わざわざ多重の闇のなかに置かれている。この場面は、十字架のヨハネが信仰が光を与える「暗黒の場」について述べるくだり、「暗黒の場というのは、理性を象徴する信仰の灯りがおかれる燭台のことである。この場所は…神を目の前にみる明らかなヴィジョンの日まで…暗黒でなくてはならないものである」(カルメル山登攀2−16)、また「神の光に近づくためには、目を開いているよりも、むしろ、盲となり、闇にとどまるべきである」(カルメル山登攀2−8)、あるいは「霊魂は、全く闇に包まれ、敵から完全に隠されているときに、神からこの霊的な恵みを受ける」(暗夜2−23)と語っている言説との類似を強く感じさせる(注26)。対抗宗教改革期にロレーヌの人々が出会った十字架のヨハネの暗夜の思想は、いわば「否定神学」であり、自らの光を全て放棄し、暗闇の中に身を置いたとき、はじめて神の光がもたらされる。詩人アンベールは盲目という自らの苦難を暗夜の思想に結び付け詩作につなげたが、画家ラ・トゥールは形成期に学んだカラヴァッジョ派のテ
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