注3)には次のようにある。研 究 者:板橋区立美術館 学芸員 佐々木 英理子はじめに蹄斎北馬は、魚屋北溪、菱川宗理などと並ぶ■飾北斎の初期門人で、北溪とならぶ北斎門人筆頭と伝えられている。しかし過去帳や菩提寺が不明のため、生没年や来歴は伝記によってしか伝えられておらず、師の栄光に隠れて未だ集中的な画業研究がなされていない現状にある。伝記によると、北馬は狂歌絵本や読本の挿絵、■物、肉筆画を多く描き、師風を離れて独自の画風を築いたとされる。肉筆画については、先に拙稿(注1)において印章から画風変遷の推定を試みたが、年記のある作例に乏しいため、今回は制作年の比較的明らかな挿絵を調査することにより、北馬の画業をより明らかにしてゆきたい。挿絵は往来物、黄表紙、合巻にも描いているが、特に数多く描いた狂歌絵本・読本挿絵の検証は看過されてきた(注2)。今回の調査では、狂歌絵本と読本を中心に北馬の作例を広く求め、その成果を基に北馬画風の形成過程、北斎との師承関係を検証しようとするものである。北馬の来歴まず、文献による北馬の来歴を整理したい。斎藤月岑『増補浮世絵類考』(天保15年、 蹄斎北馬 文化文政天保に至る 俗称 有坂氏 居 始神田 后下谷三筋町 江戸産也 北斎に学んて 狂哥■ものを多く出し 読本の密画に妙を得て 数十部を画き 世に行る 又左筆の曲画をよくす 后落髪す 北馬の画風 師の風と大に異なり 尤筆力あり 門人逸馬遊馬等其外多し続いて「板刻読本目録」として14編もの読本が挙げられ、「近年美人画彩色もの 又席上の畧画に妙なり」と記している。関根只誠編『名人忌辰録』(明治27年(1894))には「蹄齋北馬 駿々亭 俗稱有坂五郎八北齋門人御家人の隱居弘化元辰年八月六日歿す歳七十四」と記されることから、生年は逆算により明和8年(1771)とすることが定説となっている。しかし、天保11年(1840)の狂歌絵本『狂歌続歓娯集』に「七十一翁蹄斎筆」と署名のある挿絵が掲載されていること、さらに伊藤めぐみ氏により鈴木牧之(明和7(1770)〜天保― 42 ―⑤ 蹄斎北馬の画業及び北斎の絵画教育
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