鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 519 ―〔図1及び図2〕を参考として挙げておきたい。旅行に同行した際に旅行記を付けたことを機に、それ以降も日記を付けることが習慣となったと思われる(注4)。当時西欧人がインドで虎狩りなどの遠征に出かけたときに付けた日記のスタイルに似ており、主に旅先での行動を細かに記し、全体的に旅行記執筆・出版を想定したかような趣があるが、1902年と1903年には地元トラヴァンコール藩王国に帰省した際の日々の行動も記録し続けられている。西インドの藩王国ウダイプルに委託制作のために滞在した、ある日の記録と作例こうした記録にみるように、いつ、どこで、だれが、何をしたかという出来事や行動の列記とともに、どのように感じたかという感情や気持ち、そして時には考えまでもが表現されることも少なくない。この点においても、本日記記録はC. R. R. ヴァルマーの感じ方や考え方を伝える貴重な資料であるといえる。ここで、日記に使用された言語についても少し触れておきたい。C. R. R. ヴァルマーの家系はクシャトリア(王侯貴族階級)に属し、藩王の一族とも行き来があった縁で、C. R. R. ヴァルマーは幼い頃から藩王国宮廷において、お抱えの英国人教師から王子とともに英語を学ぶ機会に恵まれた(注5)。日記記録は全て英語で記されており、彼の運用能力の高さを窺い知ることができる。兄ラヴィ・ヴァルマーは個人的に英語教育を受けておらず、C. R. R. ヴァルマーほどには流暢に話すことができなかったようで、C. R. R. ヴァルマーが兄の絵画制作の契約における通訳の役割も果たしていたようである。英国式近代教育によって知識層の間で普及しつつあった英語を運用するC. R. R. ヴァルマーは、ラヴィ・ヴァルマーにとって、絵画の注文主である英国人たちとの交渉はもちろんのこと、多言語世界のインドにあって、自身の母語マラヤーラム語(Malayalam)とは全く別の言語体系を持つ北インドの王侯たちとコミュニケーションをとることのできる、必要不可欠な存在であったに違いない。事実、1895年5月に旅行を終えてからは、アトリエを構えたボンベイ(現ムンバイ Mumbai)を中心に、ラヴィ・ヴァルマーの絵画制作の助手、あるいは共同制作者、そしていわゆる秘書のような役割を担いながら過ごした様子が窺える。また、「ラヴィ・ヴァルマー美術石版印刷所(Ravi Varma Fine Art Lithographic Press)」の経営責任者としても実1901年4月18日木曜日旧マーブル・ホールをスケッチしにジャグニヴァースを再び訪れた。マーブル・ホールは年月を経て古びた感じが美しく、絵になる。帰りに、これまで見たこともないような夕陽を湖から偶然みることができた。空一面どこをとっても、絵画として描くに値する。西の方の空は、すべて金色と紫色に染まっていた。(筆者訳)

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