鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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4.C. R. R. ヴァルマーの芸術観最後に、日記記録内容から窺える、C. R. R. ヴァルマーの美術に対する態度や思いなどから、いわゆる彼の芸術観はどのようなものであったのかについて、考察してゆきたい。19世紀後半から20世紀初頭にかけての植民地下インドは、英国政府主導による美術学校教育や美術協会主催の展覧会などを通して、西洋のアカデミズム美術が普及し、それまでのインド各地の絵師たちによる細密画が主流であったインドの絵画伝統において、絵画素材、制作技法、構図、ジャンルなどが様変わりし、いわゆる「絵師」から「画家」へと描き手の社会的地位も幅を広げた時代であった。― 522 ―議派の指導者たちの知り合いも多かったようだ。しかし、日記記録には、C. R. R. ヴァルマーの政治的立場がほとんど何も表されていない。それどころか、19世紀末にボンベイで起こった飢饉や感染病の深刻な状況についての記述があるにもかかわらず、英国政府が行った感染病の隔離政策に抗議するティラクの政治運動については不自然なまでに一言も触れていないのである。しかしながら、C. R. R. ヴァルマーが後に経営を譲ることになるラヴィ・ヴァルマー印刷所において、民族的抵抗を象徴する英雄シヴァージー(Shivajib 1627−1680)の画像などの印刷画も少なからず印刷しており、民族主義的社会の機運とは全く無縁ではいられなかったことは推察される(注11)。ノイマイヤーはこのことに関して、C. R. R. ヴァルマーは制作活動において、英国人高官を含めた様々な社会的・思想的立場の人達を注文主としていることから、政治的な事柄に対する考えを日記に表すことを差し控えたものだと考察している(注12)。日記というきわめてプライベートな記述においてすら、自由に意見を記すことをためらったのはなぜか。日記は後日出版することを想定した、少し改まった場であった可能性も考え得る。しかし、日記記録全体を通して、その筆致からは、日々の行動や出来事、あくまでも感じたことなどを思い付くまま、素直に綴った記録のように見える。この点については、推測の域を越えるものではないが、C. R. R. ヴァルマー自身のなかで、文化的な憧憬の対象である英国と政治経済的な搾取者である英国という両義的な感情、そして当時形成されつつあった「インド」という民族・国家に対する思いとが、複雑に交錯しあって混沌としており、文章として自身の考えを表現するに至らなかった状態だったのではないかと、筆者は考える。これまで見てきたように、C. R. R. ヴァルマーは、作品の制作態度もまさに西洋の画家のそれと同様のものであり、かなりのところ芸術的にアカデミックな西洋絵画を志向していたといえる。日記記録には、彼が画業の手本としたのは、ヴィクトリア朝

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