― 523 ―のサロンを中心に活躍した画家ミッソニエ(Missonier)であり、彼の陰影の描き方や色調、そして画業そのものについて激賞している(注13)。また、すでに国内の美術展において数々受賞し定評を得た後も、より高いクオリティを求めて、自身の作品を提供し続けて美術協会からの批評を仰ぎ、また、他のインド人画家たちの作品を批評しながら自身の目指す芸術を求めて研鑽した様子が窺える。そんな中で、何よりも喜びを感じたのが、ボンベイの美術学校を訪れた際に美術教師をしていた英国人グリフィス(Gliffith)から、「インドの職人は生まれもって美に対する優れた鑑識を持っており、インドの美術学校生たちも訓練を積めばヨーロッパ人を越えるくらいの芸術的素質がある。」という言葉を伝えられたときであった。この言葉を聞いたときほど、うれしくて有意義なことはなかったと記している(注14)。また、日記の途中の覚書として、英国人行政官アンプティル(Ampthill)が聴衆に語った「南インドの人々に、文化を向上させるためには、まず第一に芸術(Art)を、そして第二に旅を勧めたい」という言葉を記していることも注目したい(注15)。上述してきた制作状況や交誼関係等を総合して考えると、第3項で触れたように、反英国的な機運が高揚していることを実感しつつも、芸術を生きるよすがとし、追求し続けたヴァルマーは、一見世情に無関心あるいは楽観的であるかのようにみえる。彼の死後、民族主義者たちに批判を浴びせられる西洋の技法に関して省みるような気配は少しも感じられない。写実的な技法をはじめ、西洋の画家たちの活動からも感銘を受けることで、反英感情はおろか、西洋の芸術世界への憧憬の念に満ちていたようにみえる。しかしながら、日記記録において英国人の言葉に励まされて光を見出したことから分かるように、決してひとり芸術世界に閉ざしていたわけではなく、インドにおいてもいわゆる西洋の絵画美術のような「芸術 Art」が達成できるに違いないという希望を持っていたのではないか。そこには、「芸術」に対して普遍的なものであると捉える態度が窺える。そして、そのような立場に立って、C. R. R. ヴァルマーは、芸術を通してインド国家の文化的水準について考えていたのではないかと筆者は考える。つまり、インドにおける「芸術」も、西洋に並びうる、あるいはそれを越え得るものであり、絶え間ない研鑽を通して、インドにも開かれたものであるという認識があったと筆者は考える。おわりに本稿では、C. R. R. ヴァルマーの日記記録をもとに、彼の芸術観を探ることを試み
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