鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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13年(1842))の文政12年(1829)の還暦を祝う■物に「六十翁 蹄斎北馬写」の落款があることが紹介され(注4)、定説を1年溯って明和7年(1770)を生年とする説が提示されている。忌日は『名人忌辰録』の記述のほかに異説がある(注5)。また、『増補浮世絵類考』には落髪すると記されている。曲亭馬琴の文政元年(1818)12月18日の鈴木牧之宛書簡(注6)に「昨日、四日市ニて北馬子にあひ候所、只今ハ剃髪被致候故、見ちがへ候と噂被申候。」とあることから、文政元年(1818)(北馬49歳)の時点で剃髪していたことは確認できるが、その年に剃髪したかは明確でない。安田剛蔵氏は浅草庵市人■の狂歌本『東遊』(寛政11年(1799)1月刊)に「蹄斎北馬」名で狂歌が載ることを紹介され(注7)、現在のところこれが「北馬」名の初出となっている。北馬の北斎入門時期は、北斎が「宗理」名を門人に譲り、「北斎辰政」を名乗った寛政10年(1798)以後が妥当とする説(注8)がある。しかし後述のように寛政12年(1800)に北馬の狂歌絵本・読本挿絵が初出するには、寛政10年(1798)以降の入門では修行期間が短いように思われる。北斎入門前に自習期間があったか、もしくは寛政7年(1795)正月刊の鹿都部真顔■『四方の巴流』に「北斎宗理」の使用例があることから(注9)寛政10年以前に「北馬」の画名を与えられた可能性も捨てきれない。北馬はたちまち頭角を現したようで、斎藤月岑『武江年表』では「享和年間記事」の「江戸浮世絵師」の項に既に名前が見える。さらに「曲亭来簡集」(国立国会図書館蔵)に貼り込まれた作者画工番付の断片(注10)は、画工の小結の位に北馬を掲載している。戯作者の小結は十返舎一九であることを見ると、当時の北馬の著名度がうかがわれる。北馬の画業─肉筆画など溪斎英泉『无名翁随筆』(天保4年(1833))は、『増補浮世絵類考』の内容に追記して、「画風に一派の筆意ありて、後には土佐の絵を慕ふ趣など多く画り。師の画風とは大に異なり、」としている。「一派の筆意」とは、「両国涼遊美人図」〔図1〕、「棧橋の芸妓図」〔図2〕(ともに熊本県立美術館今西コレクション蔵)等の肉筆画にみられる、歌川派を思わせるつり目、突出した下唇、長い顎、S字を描く湾曲化されたポーズ、緻密で意匠に富んだ衣の紋様描写などの特色に求められる。本稿ではこのような特色を「北馬画風」と規定することとする。今回調査および画像を確認することができた北馬の肉筆画は189件である(注11)。― 43 ―

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