3.デイと日本の造形デザインの着想源を異文化に求める姿勢は、1856年に出版されたオーウェン・ジョーンズの『装飾の文法』によって形成されたと考えられる(注16)。この本は、非西欧のものも含め、古今東西の装飾文様を多色刷りの図版で示し、分析したソースブックである。ジョーンズは非西欧の装飾文様を民族的資料としてではなく、美学的見地から着目した最初の一人であり、以後この本に影響を受けたと思われる類書が多く出版された(注17)。デイはジョーンズの『装飾の文法』を「装飾の転換点」と位置づけ、英国製品のデザイン向上に貢献したと高く評価した(注18)。しかし、その一方― 529 ―デザイナーとして、ステンド・グラス、壁紙、タイル、陶磁器、家具など、生活にかかわるあらゆるものをデザインし、英国王室御用達の業者から進取の業者にいたるまで幅広く取引し、デザインを売った(注14)。デザイナーとしての仕事が軌道に乗り始めた1870年代中頃からは、『ブリティッシュ・アーキテクト』や『アート・ジャーナル』、『マガジン・オヴ・アート』といった美術雑誌に執筆し、後進へ向けて自らの作品や同時代のデザイナーの作品、さらには日本をはじめ中国、インド、中東など、東洋の装飾美術の手法を示したデザイン理論書など、数多くの著作を書き残した。また、デザインについて教鞭をとり、講演を行い、1881年からは、ランカシャー州ラムズボトムの、ターンブル・アンド・ストックダールの捺染工場で芸術監督をつとめるなど、教育者としても活動した。さらに、1884年には、デイの率いるフィフティーン(The Fifteen)という作家、デザイナー、評論家のグループと建築家リチャード・ノーマン・ショーの助手たちと、アート・ワーカーズ・ギルドを結成。1888年には、これらのメンバーとともにアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会の創設に携わるなど、装飾美術の発展に重要な役割を果たした。現在、彼の作品は、主にロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館にコレクションされている。彼の秘書でもあった長女が売却した100点近くのデザイン、ターンブル・アンド・ストックダールら取引先の業者が委託したテキスタイル・コレクションなどがこれに含まれる。だが、製造業者がデザイナーの存在を明らかにしていないケースもあり、いまだ彼のデザインの全容は把握されていない。また、ビジネスにかかわる書簡や記録は、遺族によって処分されており、まとまったアーカイヴが存在しないことも同時代のデザイナーに比して先行研究が少ない要因といえるだろう。彼が著した膨大な数の著作についてもまとまった研究がなされていないのが現状である(注15)。
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