鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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4.デザインへの応用こうした観察を重ねて、デイが着目した日本の造形とは何だったのだろうか。そのひとつは、「自然からその本質を奪い去ることなく、自然の形態を描きかえる」手法であった(注25)。― 530 ―で次のようにも述べている。「成長、生命、特徴、そして関心を適切に組み合わせる難しさをどのように解決したらよいのだろうか?この問題の鍵は、オーウェン・ジョーンズにさえあまり知られていなかったであろう、ある芸術によって与えられる。─つまり日本の芸術である。」(注19)このようにデイは、ジョーンズの著作ではまだ扱われていなかった(注20)、日本美術の造形から新たな表現を見出そうとしていた。彼が日本の文物を初めて目の当たりにしたのは、1862年のロンドン万博の日本部門であったとされる(注21)。また、デザイナーを志した10代の頃からサウス・ケンジントン博物館に足繁く通い、各国の装飾美術をスケッチするなどして研究していたというから(注22)、このとき産業見本として展示されていた日本の美術工芸を目にすることもあっただろう。また、ウィリアム・バージェス(1827−81)、エドワード・ウィリアム・ゴドウィン(1833−86)といった同時代のデザイナーと同じように、ファーマー・アンド・ロジャース東洋商店(1862年開店)やイースト・インディア・ハウス(1875年開店、リバティの前身)など、ロンドンで日本美術を扱う店を訪れていた可能性も高い。著書でも、ロンドンの店先に日本美術が「氾濫」する様子について語っている(注23)。また、1930年にマンチェスターで開催された「刺繍」展は、デイの死後、夫人が寄贈した彼のコレクションをもとに構成されており、ここから「ブルーの糸で雲の刺繍が施された深紅のサテン」など8点の日本の織物を所有していたことがわかる(注24)。さらに、デイの著作から、陶磁器、印籠、根付など広範囲にわたる日本の美術工芸に関心を持ち、その造形を研究していた様子がうかがえる。たとえば、デイの《日本の取っ手》〔図4〕のスケッチは、デイが団扇や急須の取っ手に着目し、その素材や装飾を注意深く観察していたことを示している。たとえば、デイがジェフリー社のためにデザインした壁紙《りんごの花》〔図5〕は、「自然の形態を描きかえる」ことに成功した例として挙げられるかもしれない。

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