― 538 ―■ 書写山円教寺創建期造像の調査研究研 究 者:文化庁文化財部美術学芸課 主任文化財調査官 奧 健 夫性空が書写山に入山したという康保三年(967)より半世紀を経ない寛弘七年(1010)に作成された『播磨国書写山円教寺縁起并経論堂舎資財年輸伽徴米聖者徳行門徒等起請等事』(以下『延照記』)には山内に五十軀以上の仏像の存在が記され、その一部は今日まで伝えられている。それらの中で如意輪堂の如意輪観音像(現存せず)と講堂の本尊釈■三尊および四天王像(現存、後者は摩尼殿に安置)はそれぞれ安鎮、感阿という、いずれも性空の弟子である僧によって造られたことが知られ、この時期における仏師のありかたを考える上で重要な問題を提起している。本研究ではこれら二例を取上げて創建期書写山における造像の性格について考えてみたい。感阿や仏師としての安鎮について述べる『一乗妙行悉地菩■性空上人伝』(寛弘七年頃成立、以下『悉地伝』)は伝説的な内容を多く含むなど取扱いに注意を要するが、ここでは敢えてこれを積極的に用いて半ば仮説的に論を組立ててゆくことにする(注1)。本尊如意輪観音如意輪堂の建立年代は『悉地伝』に記されないが、『性空上人伝記遺続集』(正安二年〈1300〉■述、以下『遺続集』)に引く長吏朝豪(永仁六年〈1298〉没)日記によれば天禄元年(970)といい、これを信じれば如意輪観音像が書写山における最初期の造像ということになる。この像は延徳四年(1492)に焼失したが、『延照記』の記載「桜木如意輪観音像一体居高一尺五寸」と後述する模像二軀によりその概要を推測できる。『悉地伝』によればこの像は天人の桜木への降臨を得て「安鎮行者殊に大願を立て、第二之地、立ち乍らの桜木に、毘首を倩めず手づから如意輪を造り奉り畢」ったという。立ち乍らの桜木というのはいわゆる立木仏で、この像は嘉元二年(1304)の火災で延焼しかかったときに切取られかかり、延徳四年には火災が夜中に起こったため伐取れずついに焼失したといい(『播州書写山円教寺古今略記』)、このことより実際に地に生えた木に彫られていたことが明らかである。つまり立木仏であり、その造立時期の判る最古の例ということになる。二軀の模像とは円教寺に伝わる延応元年(1239)銘の像〔図1〕と、末寺である昌楽寺の本尊像〔図2〕である。前者は近年如意輪堂で存在が確認されたもので、本尊を刻んだ生木の第一切によって造られたという伝承をもち、同堂の明応三年(1494)再建以来その本尊とされてきた。像高一八・九センチで桜材製、素地仕上(後補の切■■
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