先に拙稿(注12)において北馬の肉筆画の印章から画風変遷の推定を試みた。まず肉筆画の初期の代表的作例は「遊女図」(大谷美術館蔵)が挙げられる。手柄岡持の讃から岡持の没年(文化10年(1813))以前の作とみられ、同様の宗理期風美人図の作例は北馬の初期肉筆画とした。北馬の代表的使用印である「北馬画印」の印影は2顆知られており、「画」字の最終画が直線のものと曲線のものがある。「北馬画印(直線)」は人物の姿態に硬さがみられるため初期の使用印とし、双龍文様の間に「北馬」とある朱文方印や、「北馬画印(曲線)」は評価の定まった晩年の使用印と考察したが、今回の調査においても拙論を大きく修正する要素は見出されなかった。「十二か月風俗図」(日本浮世絵博物館蔵)にある「六十四翁蹄斎筆」(天保4年(1833))の署名以降、年記のある肉筆画が散見され、天保7年(1836)10月26日の曲亭馬琴から篠斎に宛てた書簡(注13)に「有坂蹄斎(今ハ本画師になれり)」と記されていることを見ると、天保期には北馬は浮世絵師ではなく本画師として認識されていたと判断される。後述の通り、文化9年(1812)以降長期にわたって刊年の明らかな読本挿絵が途絶え、狂歌絵本挿絵も少なくなっていることから、北馬が本画師としての活動に重点を移した時期は、読本挿絵が途絶えた後、恐らく剃髪した文政初年頃と推測することができる。さらに、文化13年(1816)刊の『百人一首』(国文学研究資料館蔵、奥付に「蹄斎北馬画」とあり。)〔図3〕の折本における歌仙絵では、歌川派風を思わせるつり目・突出した下唇・長い顎の特徴が現れており、文化末年には「一派の筆意」を獲得しつつあると推察される。北馬の画業─狂歌絵本『増補浮世絵類考』によると、北馬は■物を多く出した絵師として認識されている。今回、50点以上の狂歌などの■物を確認したが、美人図、静物、動物のほか、「紅毛男女額絵と遠眼鏡」(神戸市立博物館蔵)のような洋風画に関心を示したものなど多様であり、北馬の画業上で重要な部門である。しかし、これらが描かれたと思われる享和から文政期は、狂歌が大衆化・通俗化した時期とみられ、狂歌史の面からも研究が手薄な時代である。さらに作品の編年をたどる年記も乏しいため、今回は狂歌絵本・読本の調査を優先することとした。北馬の制作年代が明らかな最初期の画業は、狂歌絵本と読本の挿絵である。刊年の判明する狂歌絵本では、序文に「寛政十あまりふたつのとしむつき」とある千種庵霜解■『狂歌花鳥集(夷曲花鳥集)』が嚆矢で、寛政12年(1800)は北馬31歳の年にあたる。挿絵は墨刷りで(注14)北馬は9図を描いているが、他に易祇、宗寿らの挿絵― 44 ―
元のページ ../index.html#55