鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
550/620

― 539 ―金が置かれる)。後者(注2)は円教寺本尊の試みの像という伝承が付く像で、十一世紀後半ないし十二世紀初めの作で、像高二一・五センチで檜材製、彩色仕上と報告されている(筆者未確認)。ともに本体は通形の如意輪観音で簡略な造形を示し、共木彫出になる岩座に直接坐る点に特徴がある。前者の戴く筒型冠は十世紀の彫像によくみられる形式で、これも原像の形式を踏襲しているのであろう。さらにこれらと関連する作例として大阪大門寺の如意輪観音像(像高五八・六センチ、十一〜十二世紀)〔図3〕を挙げる。やはり岩座に坐る姿で、用材は樟であるが、ノミ痕をとどめた素地仕上げで岩座まで共木とし、屈曲の強い老樹の根元の部分を用いたとみられ、髪際高四七・二センチが円教寺本尊の居高一尺五寸にほぼ一致することと併せて円教寺本尊との関係をうかがわせる。作者である安鎮行者は上人の資といい、書写山内に往生院を建立し、寛弘二年(1005)に同院僧として仏事の整備をおこなっており(『延照記』所収安鎮申状)、長保二年(999)の弥勒寺弥勒仏像の像内の結縁交名にも名を連ねる。「毘首を倩めず、手づから如意輪を造り奉り畢んぬ」という文言は、天元三年(980)の比叡山根本中堂改造の際の供養願文にみえる最澄による薬師如来像造立についての「巧手の人を倩めず、自ら等身の像を造る」という文言をプロトタイプとしているのであろう。つまりここには最澄自造になぞらえた造像行為という含意がある。ただしこれは造像時というよりあくまで『悉地伝』成立の時点での認識であることには注意が必要である。さて『延照記』によれば如意輪堂に安置される諸像のなかに「同(綵色)三尺兜抜天像一体」があった。如意輪と兜跋毘沙門天の組合わせの例としては他に上醍醐寺の如意輪堂と準胝堂(『醍醐雑事記』)、金峯山寺(『醍醐根本僧正略伝』、ただし単に多聞天とあり)、さらには石山寺本尊が挙げられる。醍醐寺の両堂と金峯山寺の如意輪像が聖宝関係の造像であることはいうまでもない。石山寺本尊は造立当初は単に観音像と称されていたのが如意輪観音とされるようになったことにやはり聖宝あるいは観賢の関与が推定されており、現存する兜跋毘沙門天像が造り副えられたのも九世紀後半と聖宝の活動期にあたる。金峯山寺像は如意輪・多聞天に金剛蔵王菩■が加わる三尊構成になるが、醍醐寺準胝堂にも執金剛神が安置され、石山寺では脇侍の二神王に遅くとも平安末に執金剛神・金剛蔵王菩■の名称が付けられていた。ここで注目されるのが『延照記』の講堂安置仏像の中にみえる「金剛力士一体」の存在である。これが単独の執金剛神像ならばここにも如意輪観音・兜跋毘沙門天・執金剛神の組合わせが存在した可能性がある。この種の組合わせは必ずしも単一の典拠によるものではないと思われるが、根底をなすものとして『金光明最勝王経』で共に如意宝珠陀羅尼を

元のページ  ../index.html#550

このブックを見る