― 540 ―説く観音と多聞天、無勝陀羅尼を説く執金剛秘密主菩■に、同経に登場する菩提樹神(地天女)を加えたものとする考え方をここで提示しておく。如意輪と兜跋毘沙門天の組合わせが陝西省法門寺地宮七重舎利宝函(第二重正面兜跋毘沙門天、第五重正面如意輪観音)や四川省巴中石窟南一六窟に、同じく毘沙門・執金剛神は四川省石笋山石窟二七〜二九窟(大暦三年〈768〉銘、中尊は釈■)にみられることも留意される。石山寺本尊像は直接岩上に坐るという図像的特徴において円教寺像の先行例である。この図像的特徴は『華厳経』入法法界品の記述「見観世音菩■住山西阿、処処皆有流泉浴池、林木欝茂地草柔軟、結跏趺坐金剛宝座」(仏駄跋陀羅訳)に由来する。ここで醍醐寺如意輪堂本尊如意輪観音(当初は準胝堂に準胝像と並置されていたともみられる)の像容に注目したい。『醍醐寺要書』所収延喜十四年(914)太政官符に引く観賢奏状に「樹下の草を採り庵居を結成し、石上の苔を払い尊像を安置す」とあるのは盤石上に直接像が安置されたことを想像させる。現存する慶長十三年(1608)の再興像(奈良大仏師侍従作)は蓮華座に坐るが二臂で竪て膝の像であり、右手は思惟手とするが左手は与願印で密教像と石山寺本尊との折衷形式というべき図像である。三度の焼失を経ておりどの程度当初の像容を伝えているか不明であるが、『醍醐寺新要録』の引く「或記」には文安六年(1449)の地震の際に御帳の中を確認した際に「如意輪ノ二臂ノ様」を記し留めたとあり、少なくとも応安二年(1369)頃に造られた二度目の再興像は二臂であったようである。如意輪堂に石山寺如意輪が示現した由縁により毎年燈明料として年貢が同堂に送られていた(『醍醐雑事記』)こともこの像と石山寺本尊との関係を示唆する。こうみると円教寺如意輪には聖宝からのつながりを考えざるをえない。さらに『悉地伝』によれば、化人が性空に吉処として示した書写山中の三地のうち第三地は「準胝斯に住し、琰魔斯に通ふ」とされながら「此峯時を待つ、珠を含んで未だ吐かず、崇重の人の将来を待つべし」として堂宇が建立されず、ここを準胝峯と呼んだという。これを当初準胝を安置する堂の計画があったことを示すとみることもできる。となればますます聖宝との関係を想定したくなる(注3)が、書写山創建の周辺に聖宝系統の影は全く見えない。聖宝が如意輪を本尊としたのは、『薄草子口決』の引く憲深僧正御自筆にしたがえば『觀自在菩■如意輪瑜伽法要』の文言に拠る末世の行人を修行時の懈怠散乱から遠離せしめる如意輪観音の本誓によるもので、執金剛神に東大寺の金鷲行者以来の系譜が想定できることと併せ、山岳修行者の本尊として聖宝が選択した像構成を宗派を越えて安鎮が継承しているとみておく。石山寺本尊の岩座について『三宝絵』下には「昔翁の居て釣せし石」つまり地主神
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