― 541 ―(か)の占有する石の上に観音を造り据えたという伝説が載せられており、円教寺像では石が桜の立木に置換えられたと捉えることができる。このことは立木仏の性格を考えるうえできわめて重要である。さらには桜木に降臨した「天人」について菩提樹神に重ね合わされていると読み解ける可能性についても付け加えておきたい。講堂釈■三尊・四天王講堂釈■三尊〔図4〕および四天王像〔図5〕は『延照記』に「居高四尺金色釈■如来一体、脇士五尺普賢文殊各一体(中略)四天王像各一体」とみえる。このうち釈■像は同記所収の寛和二年(986)性空奏状および同じく永延元年(987)十月供養願文によれば寛和二年七月の花山法皇の書写山行幸を機に発願され、前者によると同状が出された十一月には出来ていた。同状に一軀と記すことからすればこの時点で両脇侍は造られていなかったのだろう。『悉地伝』には供養の時には三体が■っていたように書かれているが、『扶桑略記』の講堂供養の記事に「(半)丈六釈■仏像」とのみあるのがやや気になる。釈■と両脇侍はこの時期の像としては古風な四角張った体型や紐状の衣文線が共通するが、両脇侍の作風が■っているのに対して中尊はこれらと面部の肉取や耳珠が前に出る耳の形など随所に小異をみせ、同じ仏師の作とは思えない。『悉地伝』には「仏則ち感阿天に代り像を刻み、堂則ち天工聖に帰し寺を造る、感阿即ち天人の資也」とあり、如意輪の安鎮と同様に性空の弟子である感阿が造像したということになっている。「天に代り」は前述した如意輪の「毘首を倩めず」と同じく僧侶自造を意味するのであろうが、ここで感阿の役割がいかなるものだったかが問題となる。四天王は近年の研究(注4)を参照して以下のように本来の名称を比定することができる。まず持国・増長は現名称通りか、もしくは互いに入替わるかのいずれかで、同時代の他例から推せば現状どおり腰を互いに内側に捻る形とするのが妥当かと思われるが、口の開閉が他例と逆となる点にやや問題を残す。広目・多聞は相互に入替わるべきで、広目(指定名称多聞)は本来左手を振上げる体勢だったはずである。多聞(同広目)は直立する体勢と、現状の天冠台より上の形状から本来別に造った筒形冠を戴いていたと推定されることから兜跋毘沙門天より借用した図像と思われ、当初は左掌に宝塔を載せる構えだった可能性が考えられる。ただし足下に共木で表される頭を左に伏臥する邪鬼の中心部が遺り、そこは彫直しともみられないので、地天に支えられる形式ではないことは確かで、口を開けるのも兜跋毘沙門天とは異なっている。『悉地伝』の講堂供養の記述に触れられず、供養時に出来ていたかどうかは定かでな
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