鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 542 ―いが、作風から釈■三尊と同じ仏師集団により造られたことが明らかであり、両脇侍完成に続いて造られたとみて不都合はない。四軀の中で最も優れる増長天は両脇侍と蓮弁形の宝冠に加えて顎の短い顔立ちや衣文の彫法が共通する。広目・多聞はかなり作行が落ち、助作者の手が■っていない状況をうかがわせる。ここで講堂諸像と共通する作風をみせる像として京都妙法院護摩堂不動明王像(注5)〔図6〕を挙げたい。像種の違いを超えて両者には類似を認めることができる。妙法院像と両脇侍は四角張った体型とプロポーションが共通し、左脇侍の首を右にかしげ左膝を緩めた身のこなしは妙法院像と単に同じポーズという以上の類似をみせる。耳の彫法、胸腹の堅太りの肉付け、条帛をやや細めにして稜線による衣文を重ねる点やその先端の形、下半身の衣縁のたたみ方、衣文が紐状で先端がややふくらんで解消する表現などもよく似ている〔図7・8〕。さらに妙法院像の忿怒相は目鼻立ちの配置と眉目のつくり方が増長天と通じる〔図9・10〕。こうみると両者は少なくとも工房系統を同じくすることが考えられる。両脇侍および増長天を除く四天王の台座まで共木で彫出し内刳を施さない構造─これも作風と同じくこの時代としてはやや古風である─が妙法院像と共通することも注意される。妙法院像のほうが彫技がはるかに周到で、円教寺像は細部の処理がそっけないが、造像規模の違いでこの差は生じ得るであろう。妙法院護摩堂は比叡山常住金剛院の後身で、本尊である不動明王像も山上から移坐されたと推定されている。この像との類似から、円教寺講堂像には延暦寺に関係する仏師が関わっているのではないかという推測が導き出される。延暦寺では承平六年(936)の根本中堂・前唐院等の焼亡に伴い仏像修理のための大仏師が置かれ、十世紀後半には中堂大仏師平興・講堂大仏師普興・文殊楼大仏師成真や横川で造像した仏師明定などの活動が知られている。延暦寺と円教寺の関係を思えば、延暦寺が配下の仏師を円教寺に派遣するのはありそうなことと思われる。感阿がかつて性空の許で僧として修行したのちそのような仏師の一人となっていたのか、あるいは感阿は名目上の大仏師で実際には比叡山より招いた職業仏師の力を借りて造像が行われたのかはにわかに判じ難い。『悉地伝』の文言「天に代わり」は如意輪の「毘首を倩めず」とは異なり専門仏師の参加を否定するものではない。いずれにせよ簡略な彫りになる小像であった如意輪観音とは事情が異なっていたことが想像されるのである。旧往生院阿弥陀如来像など安鎮作と目されている現存作例に、同人の建立した旧往生院の周丈六阿弥陀像(現

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