鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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注⑴ 円教寺に関する総合的な研究書として次のものがあり、本研究はこれに少なからぬ恩恵を被っ― 543 ―常行堂安置)〔図11〕およびこれと作風が酷似する弥勒寺弥勒三尊像がある。前述の通り弥勒寺像の像内銘に安鎮の名がみえ、また旧往生院像は『遺続集』に安鎮作とされる。また『延照記』に慶雲大法師の建立になる真言堂に安置するため五人の檀越を得て造られたことが記される五大明王像(現在、食堂に安置)は、やはり『遺続集』中に安鎮作としてみえるが、全面的に表面補修を被るものの不動の翻波式の名残をとどめた大まかな衣文や耳の彫法が旧往生院像および弥勒寺像と一致することからこれらと同一仏師の作とみて誤りない。旧往生院像は根幹部を前後二材製とする構造になるが、前後材の間に襠材を廻し、また根幹部後半材の両端や両腰脇部にも木寄の段階で材の間に空隙ができるように組むなど材の効率的な使用がみられる。このようなやりかた─いわゆる箱組式構造─は六波羅蜜寺十一面観音像の背面下半身にみられるのを初例として以後発達したものであり、平等院阿弥陀像の両腰脇部には旧往生院像と同工の横材の使い方がなされている〔図12〕。この部位には材の形に引きずられたような平板な造形も看取されるものの、それ以外は総じて破綻をみせずに巨軀がまとめ上げられており、そこに大仏師の統括者としての力量をみることができる。このような点から製作にあたったのは大像製作の経験を積んだ工房であったとすべきである。安鎮が天禄元年(970)以来、円教寺内のみで造仏に携わってきたのならこのような像を造れるかやや疑問で、同人は円教寺所属の僧でありながら専門仏師として寺外の造仏を行ううちにかかる大規模造像を手掛ける技量を習得していたか、あるいは大仏師が別に存在したかのいずれかであろう。これらの像の作風は講堂釈■三尊・四天王像とは異質であり、講堂供養から弥勒寺像造立までの十二年の年代差を考慮に入れても、講堂像からの展開とはみえない。両者は工房を異にするとみるべきと思われる。以上みてきた如く、円教寺創建期造像は九〜十世紀における仏師の僧名化という現象を考えるうえで重要である。すなわちそこには最澄の根本中堂薬師像自造伝説や行者による造像との関連がうかがえ、また仏師の供給源としての比叡山の存在という問題も提起された。なお未決の点も多いが、平安中期彫刻史における円教寺造像の意義を本研究により提示できたと考える。

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