が載る合作である。このうち井戸端の母子の図〔図4〕は「蹄斎北馬画」の落款があり、北斎の宗理期の「調布の玉川」(北斎館蔵)に描かれた母子に近似している。これにより、画業の最初期から「蹄斎北馬」名を名乗り、当初は師風を墨守していたことを示す。ただ、人物の姿態に柔軟性がなく、手指の描線などにぎこちなさを感じさせる。続く千種庵霜解■『狂歌幕之内』(享和2年(1802))では全48図もの挿絵を担任し、奥付に「画工 蹄斎北馬」と記名されており、全ての挿絵を任せられる実力を身につけている。師の北斎は、狂歌連「浅草側」を主宰した浅草庵市人の狂歌絵本には描いているが、浅草側に属した千種庵への挿絵は見出されていない。管見に入った刊年が明らかな狂歌絵本を編年すると、千種庵■『狂歌花鳥集』(寛政12年(1800))、千種庵■『狂歌幕之内』(享和2年(1802))、『狂歌花の莚』(文化3年(1806))と続き、その後5年あいて六樹園宿屋飯盛■『自讃狂歌集』(文化8年(1811))が続く。この文化3〜6年(1806−1809)頃は、後述する読本挿絵の仕事が増大している。その後の北馬の狂歌絵本は文政期に2編に減少し、図中に「七十一翁蹄斎筆」と署名のある至清堂捨魚■『狂歌続歓娯集』(天保11年(1840))が掉尾となる。一方、北斎の狂歌絵本挿絵の初作については、寛政6年(1794)の『狂歌聯合女品定』(九州大学富田文庫蔵)に「叢春朗」の署名があることが紹介されているが、異説もある(注15)。北斎は『東都名所一覧』(寛政12年(1800))などに多色刷りの美麗な挿絵を数多く描いたことが知られ、文化中期から文政期に狂歌絵本の仕事量は大きく減少しつつ天保期頃まで作例がみられる。以上の点から北斎と北馬の狂歌絵本を比較すると、北斎が最も盛んに狂歌絵本に挿絵した時期に北馬の画業が始まり、両人とも文化初期まで盛んに作画し、文政期に減少するという同じ流れをたどっている。北馬の狂歌絵本の画風は宗理期風に始まり、寛政から文化年間では明らかな北斎風からの乖離は見られない。文政6年(1823)(北馬54歳)の浅草庵守舎ほか■『狂歌隅田川名所図会』〔図5〕において、北馬画風を示すようになることから、剃髪した文政初年頃は北馬画風の転換期と見なすことができる。また北斎と北馬は挿絵を描くだけでなく、自らも狂歌を発表している。早い例では、狂歌堂真顔■『四方の巴流』(寛政7年(1795))(注16)に「大黒も年始に来ませみ蔵まち門の俵をしをりにはして 北斎宗理」があり、『東遊』(寛政11年)には玉葉連として「硝子の色の青める 池水に ぽこん〳〵と蛙飛びこむ 蹄齋北馬」が掲載さ― 45 ―
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