鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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3.今後の研究視座前章で確認した《トゥシェボン祭壇画》の絵画原理がどのように形成されたのか、その発展的道筋を今後の研究で検証していきたい。これまで主にドイツ語圏とチェコの美術史家たちによって行われてきた研究では、トゥシェボンの画家が、一般に、プラハ宮廷絵画の伝統から出発し、パリ宮廷絵画、とりわけ、フランコ・フラマン画派との接触を持ちながら、独創的な絵画様式を発展させた、と推定されてきた。しかし、同時代のフランスの板絵が非常に僅かしか残っていないことが、こうした推定を困難にさせている。本作品との様式的類似は、例えば、メルキオール・ブルーデルラムの《ディジョン祭壇画》(1394−99年)やアントウェルペンとボルティモワにある《四連板絵》(1400年頃)など、1390年から1400年頃のネーデルラント板絵との間に指摘されているが、これらは年代的に新しい世代の作品である。― 552 ―前章で考察したように、トゥシェボンの画家は、古い〈柔軟様式〉の構図原理に少なからず依拠している。したがって、彼の様式は、〈柔軟様式〉が最盛期を迎えていた1360−70年代のプラハ宮廷絵画、とりわけ、カールシュテイン城の壁画と板絵により深い関連を持っていると思われる。この文脈で、重要な作例は、カールシュテイン城の旧王宮礼拝堂に現存する二連の《黙示録壁画》─「荒野に逃げ込む女と龍」と「太陽の女」─(1360−65年頃/70年頃?)である。《トゥシェボン祭壇画》に先立つ重要な作例として、この《黙示録壁画》を取り上げたのは、アルフレッド・シュタンゲ(1936)が初めてであるが、同時期に、アントニーン・マチェイチェック(1937)がより進んだ見解を示していた(注11)。つまり、シュタンゲは、「太陽の女」をトゥシェボンの女性人物像の先行例として指摘しただけであったが、マチェイチェックは、《黙示録壁画》に見られる人物像タイプ、建築モティーフ、大地の展示方法、植物の形体、そして形体の柔らかい絵画的な処理をトゥシェボンの画家の前提と捉え、これらの類似点から、彼の芸術的始まりを《黙示録》の画家に求めたのである。さらに、ヤロミール・ホモルカ(1997)は、問題となる《黙示録の女の二連壁画》を同礼拝堂の南壁と東壁に現存する他の《黙示録壁画連作》から区別し、別の独立した画家の手を認めた(注12)。その上で、彼は《トゥシェボン祭壇画》と《黙示録の女の二連壁画》との様式的類似(対角線構図、人物像タイプ、陰影表現)を強調し、最終的に後者の年代を1370年頃に設定することで、トゥシェボンの画家の初期作品としての可能性を示唆している。現段階では、マチェイチェック─ホモルカの仮説が、トゥシェボンの画家の様式的起源に関して最も示唆に富むものであると考えており、今後この仮説を前章で考察し

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