鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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⑵ 祭壇画の復元案については、J. Cibulka, Rekonstrukce oltárˇe trˇebonˇského mistra na základeˇ ⑷ ボヘミアにおけるアウグスティヌス派修道会の最初の修道院は、1333年に最後のプラハ司教、ドラジッツのヤン四世によって司教宮殿の在所であるロウドニツェに創設され、次いで1350年、カール四世によってプラハに第二の修道院が、そして1367年、トゥシェボンに第三の修道院が注⑴ 本作品に関する研究は数多く、ここでは重要な文献のみを挙げておく。まず、1940年までの研究成果は、マチェイチェックが編纂、執筆した『ボヘミア・ゴシック板絵集成』に集録されている: A. Mateˇjcˇek, Cˇeská malba gotická. Deskové malírˇství 1350−1450, Praha 1940, pp. 83−92を参照せよ。また、この集成の普及版として以下を参照せよ: A. Mateˇjcˇek / J. Pešina, Gotische Malerei im Böhmen. Tafelmalerei 1350−1450, Praha 1955 (also french and english edition), pp. 61−62. 第二次大戦後の研究としては、G. Schmidt, Der Meister von Wittingau und sein Kreis, in: Gotik im Böhmen, K. M. Swovoda (ed.), München 1969, pp. 225−230; A. Kutal, Gothic Art in Bohemia and Moravia, London / New York / Sydney / Toronto 1971, pp. 128−129; J. Pešina, Der Wittingauer Meister, in: Die Parler und der Schöne Stil 1350−1400, Bd. 2, Köln 1978, pp. 765−769; J. Homolka, Poznámky k trˇebonˇskému mistrovi, in: Sborník prací filosofické fakulty brneˇnské university, 1979/80, pp. 25−33; Karel IV. Císarˇ z boží milosti. Kultura a umeˇní za vlády Lucemburku˚ 1310−1437, J. Fajt (ed.), Praha 2006 (also german edition), pp. 502−504, cat. no. 171 (J. Fajt)を参照せよ。― 553 ―た絵画原理の観点から再検討していきたい。その上で重要なことは、1355−65年間にプラハ宮廷派が制作したカールシュテイン城の壁画と板絵を、同時代のパリ宮廷絵画の発展と共に検討することである。というのも、ボヘミア絵画における国際ゴシック様式の問題は、カールシュテインの絵画を水源としているからであり、《ルクセンブルク家系図》(1355−57年)、マスター・テオドリックの絵画(1359−65年)、そして当該の《黙示録壁画》で達成された芸術的遺産をトゥシェボンの画家がどのように受け継ぎ、評価したのかが問題となるのだ。そしてこのプラハ宮廷画家の系譜を、《ジャン・ド・シー聖書》の画家(1355−80年頃活動)、ジャン・ボンドル(1368−81年活動)、《ナルボンヌの祭壇飾布》の画家(1370−90年頃活動)、これらのパリ宮廷画家との対照の中で考察していかなければならない。この中で、《トゥシェボン祭壇画》の画家の同時代人は、《ナルボンヌの祭壇飾布》の画家であり、このフランスとボヘミアの宮廷画家は、絵画的ヴィジョンの創出にある共通の感覚を持っていたと思う。ミラード・ミースは、《ナルボンヌの祭壇飾布》の画家と1360年頃のボヘミア絵画との結び付きを示唆していたが(注13)、この考えには別の視点から再検討が必要であると思われ、こうした見解も含めて今後さらにフランス絵画との繋がりを調査研究していきたい。ikonografickém, in: Umeˇní, 1967, pp. 477−491を参照せよ。⑶ 本祭壇画の制作年代としては、現在一般に1380年頃が支持されているが、シュミットは成立を若干遅く、1385−90年頃としている: G. Schmidt, op. cit., p. 225を参照せよ。

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