鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 558 ―研究の前提となる歴史的状況の概要を報告したい。欧州の画家たちのあいだに、具象表現と古典的主題への回帰の徴候が認められるようになるのは、1914年、15年頃からのことである。さらに、この「退行」現象をめぐる画家たち自身と文学者たちによる理論的な言説が発表されはじめるのが1919年頃からである(注4)。繰り返すまでもなく、この古典回帰の動向においても先駆けたのはパブロ・ピカソであった。ディアギレフのバレエ・リュス「パラード」を準備していた詩人ジャン・コクトーと画家が、ともにローマ、ヴァチカン、ナポリ、ポンペイを旅するばかりでなく、ジャコモ・バッラやエンリコ・プランポリーニら未来派の画家たちのアトリエを訪ねた1917年は、キュビスムと未来派との相互浸透のなかから生まれた「キュボ・フチュリスム」のみならず、前衛芸術運動との関係において古典回帰の問題を考える上で、とりわけ重要な年号のひとつである(時を同じくして、この年の4月には、デュシャンのレディメイド《泉》が、ニューヨークのアーモリー・ショーに出品されている)。同様に、イタリアにおける「古典回帰」の動向を記述するにあたって特権的な年号のひとつとなるのが、1916年であるだろう。この年の8月、未来派の画家ウンベルト・ボッチョーニが戦場で落馬してヴェローナの病院で他界する(そのボッチョーニもまた、すでに1914年頃から未来派への懐疑を抱いていた(注5))。そして、この「第一次未来派」あるいは初期未来派絵画時代の終焉が徴づけられた年の初めに、カルラはマリネッティとの口論の末に、すでに未来主義との決別を決めていた。カルロ・カルラは、前衛絵画の時代から古典回帰へと向かった未来派の画家たちのなかでも、たとえば『キュビスムから古典主義へ:コンパスと数の美学(Du Cubisme au classicisme: Esthétique du compas et du nombre)』(1921年)(その献辞は「画家ボッチョーニの思い出に」捧げられている)を執筆したジーノ・セヴェリーニにもまして、特異な歩みをみせた画家である。1881年、ピエモンテ州アレッサンドリア県クアルニェントに生まれたカルラは、19世紀末にミラノに移り住んだ。1900年には、パリ万国博覧会のイタリア館の装飾の仕事を見つけてパリに滞在し、同時代のフランス美術に触れた。帰国後、ミラノで装飾やフレスコの職人として仕事する傍ら、夜はブレラ美術学校に学び、美術館巡りを続けた。同時代のイタリア分割主義の画家たちの影*

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