れている。さらに浅草庵市人■『狂歌萩古枝』(享和2年(1802))(注17)には、「初茄子 放下師のわさかもはやき初茄子すこしも種の見ゆるのはなし 蹄斎北馬」、「花とちれ雪としらけよ秋の夜はちからまかせの米のつき影 俵屋宗理」と、北馬・北斎の狂歌がそろって載る。石川一郎氏や橋本秀信氏により、北斎とその一門が文政から天保にかけて盛んに発表した川柳が紹介されているが(注18)、それに先駆けて寛政期には狂歌に親しみ、狂歌判者と交遊を深めていた様子が伝わる。北馬の画業─読本次に管見に入った北馬の読本挿絵について、制作年が明らかな作例に限って見てゆきたい。北馬の読本挿絵の初作は、流霞窓広住作『席上怪話雨錦』4巻(寛政12年(1800)、東洋大学附属図書館哲学堂文庫蔵)(注19)で、各巻1図、全4図を描いている。第4巻挿絵の落款には「右四葉 蹄斎北馬筆」とあり、狂歌絵本の初作に同じく「蹄斎北馬」を名乗っている。現時点では『狂歌花鳥集』、『席上怪話雨錦』を溯る制作年の明らかな作例が見出せないため、寛政12年(1800)(北馬31歳)は北馬が画壇に現れる重要な年と位置づけられる。その後は文化3年(1806)に感和亭鬼武『報仇奇談自来也説話』、『奇児酬怨桜池由来』、『復讐鴫立沢』に描いて以後多作になり、8編の読本などに描いた文化5年(1808)がピークとなる。しかし文化9年(1812)以後、文政12年(1829)の高井蘭山『平家物語図会』前編他まで、17年にわたって制作年の明らかな読本挿絵が途絶え、天保3年の山田案山子『義仲勲功図会』で読本挿絵の仕事に幕を閉じている。作者別に見ると、最も多く挿絵を寄せたのは感和亭鬼武である。髙木元氏により、鬼武作『復讐鴫立沢』において北馬の本名「有坂五郎八」に似た「有坂五郎三郎」なる敵役が登場し、北馬によって鬼武の姿が挿絵に描き込まれるなど北馬と鬼武の交友が紹介され(注20)、狂歌絵本に自らの歌を掲載すると同様、読本作者との親密な様子が見られる。江戸読本の刊行数を『出像稗史外題鑑』に登載された題名により概観すると、寛政末から漸増して文化5年(1808)に頂点を迎え、その後は減少してゆくとされる(注21)。北斎においても同様の動きが見られ、文化5年(1808)をピークに文化7年(1810)以降は挿絵の作画が減少し、文化11年(1814)以後は『北斎漫画』など絵手本の制作に興味を移している。北馬も文化5年(1808)をピークとしているが、文化9年以後に読本挿絵の制作が長期間途絶える点に特徴がある。北馬の読本挿絵の画風をみると、初作『席上怪話雨錦』〔図6〕の挿絵は、狂歌絵― 46 ―
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