鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
570/620

― 559 ―響の下で画家としての形成期を過ごしたカルラは、やがて1910年のミラノでマリネッティと出会い、ジャコモ・バッラ、ウンベルト・ボッチョーニ、ルイジ・ルッソロらとともに未来派運動に加わる。最も戦闘的な未来派の画家であったともいえよう、《無政府主義者ガッリの埋葬》(1908/11年頃、油彩・カンヴァス、185×260cm、ニューヨーク近代美術館蔵)を描いたカルラの飛翔が、あたかも急旋回するかのように、形而上絵画の名の下にジョルジョ・デ・キリコの運命と交差するのは、よく知られるように、1917年のフェラーラにおいてである。1910年代初めにデ・キリコが独創し、アポリネールの批評に由来して命名された「形而上絵画」と区別されなくてはならないが、グループとしての形而上絵画(派)は、このグループに参加したフェラーラ生まれの画家フィリッポ・デ・ピシスが記した通り、まさしく「ポスト未来派」の時代、戦時下のイタリアで生まれたのであり、あるいは画家たちは、戦争がなければ決して出会うことがなかったかもしれない。1917年3月、友人アルデンゴ・ソフィッチからの強い勧めもあって、カルラは、同じく兵役のためフェラーラに滞在中のデ・キリコとその弟で音楽家・作家・画家のアルベルト・サヴィニオ(本名アンドレア・デ・キリコ)と知り合う。知り合ってからの数カ月、ほとんど毎日お互いのアトリエを行き来し合うことになるが、二人と知り合う直前のカルラの眼には、デ・キリコの絵画は「冷たい文学的合理化(fredda razionalizzazione letteraria)」(注6)と映っていた。のちに美術史家ロベルト・ロンギが、「伝統とはおよそ懸け離れたところで育ったデ・キリコは、古の絵画を懐古的な単なる舞台装置として呼び出し、そのなかにキュビスムの怪物たちを跋扈させる。そこでは怪物たちは素描練習用のマネキンへと、リアリスティックに置き換えられていく。クワトロチェントは形而上的操り人形と、石化した招待客のための舞台となったのである」(注7)と評して、とりわけデ・キリコとカルラの絵画のあいだの差異に強調をおいた記述を行ったことが想起されるが、その差異とは、まさにカルラ自身がデ・キリコに接近する前から意識しており、一時期の間ではあれ接近することを躊躇わせた理由ともなったものであった(注8)。カルラの文章には「謎、神秘、奇妙な、深遠な、未知の、知られざる、といったデ・キリコ的な詩学の主な主題を構成する言葉、そのいずれも決して現れることはない」(注9)(G. ブリガンティ)とまで断言するのは明らかに誇張であるにせよ、かつて「我謎より他に何を愛さん(ET QUID AMABO NISI QUOD AENIGMA EST?)」を自画像

元のページ  ../index.html#570

このブックを見る