― 560 ―の標語として描き込んだギリシャ生まれの画家に対して、自らの「形而上絵画」が基づくのはあくまでも「日常的なものごと/普通の物たち(cose ordinarie)」と「平静な詩学の感覚(senso del pacato poetico)であると主張したのが、ほかでもないカルラであった(注10)。とはいえ、1917年のフェラーラで過ごしたおよそ8ヶ月という短い期間に、デ・キリコの文字通り近くにあったカルラが制作した8点の油彩作品には、マネキンの立像、傾斜した床面のある室内空間、黒板や魚のモティーフ、さらには《形而上的女神(La Musa metafisica)》(1917年、油彩・カンヴァス、ミラノ、個人蔵)や《ヘルマフロディト偶像(L’idolo ermafrodito /Il Dio ermafrodito)》(1917年、油彩・カンヴァス、65×42cm、ジャンニ・マッティオーリ・コレクション蔵)〔図1〕といった作品タイトルにも、デ・キリコの絵画作品およびアルベルト・サヴィニオの文学作品の影響が明白である。デ・キリコとカルラの作品世界の比較、さらには二人にとっての「過去の美術」、「古典」ないし「伝統」の意味するところが具体的に何であったか、何において共通した感覚を見いだし、いかに異なっていたか、また相互的な影響関係を詳細に検討した上で、二つの「形而上絵画」の本質を考察すること、そしてまた、それらがそれぞれ現代に向けて開いている可能性に関しては、場所をあらためたい。二人が共同して企画した展覧会を含めた様々な活動についても同様である。二人の画家がともに生涯を通じて多筆な文章家でもあったことに注目しておきたい。一方で、デ・キリコの反「近代美術史」的な言説と、古代彫刻、古典絵画からベックリーン、ルノワール、クールベに至るまでの絵画の模写や参照行為、さらには自己反復的な絵画制作は、対をなした営為であったともいえる。デ・キリコの画歴の後期時代に属し、今日においては「バッド・ペインティング」の系譜の始まりのひとつに位置づけられ、一方ではモダニズムの文脈において否定的な評価を与えられてきた作品の制作という画家の「実践」は、一般的なヨーロッパの近代絵画史(セザンヌを起点に、印象派を中心として、主としてフランス絵画の進展のみをたどる)を再検討するという、画家の言説に見られる理論的な「企図」と対のものとして存在していたばかりでなく、その言説はしばしば挑発的な要素を含んでいる(注11)。画家はまた、詩のほかに、『エブドメロス(Hebdomeros)』『デュードロン氏(Signor Dudron)』をはじめとする小説も執筆した。
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