― 561 ―他方、カルラのテクストは、時には読者に向かって「君(Tu)」と呼びかけて語りかける、より内的な省察の詩的な記録というべき性格を有する(注12)。その造形的探究の対象として選ばれたのは、主としてイタリアの画家であり、「時にはイタリアの神であるように思われる」ジョットにはじまり、クアトロチェントのトスカーナを中心に活躍した画家たち、ウッチェルロ、マゾリーノ、ピエロ・デッラ・フランチェスカなどであった(近代では、セザンヌ、「税関吏」ルソー、マティス、ピカソ、ドランが頻繁に言及される画家のうちにかぞえられる)。同時代にあって、デ・キリコはつねにカルラを「画家・著述家・詩人」として紹介したが、その著述に関しても「絵画についての抒情的な散文、哲学的な省察」(注13)と形容している(ついで1920年の『形而上絵画』の書評においては、その文体を「不明瞭で混乱した(oscuro e confuso)」(注14)とも評することになる)。その文章は、美学的信条の表明とならんで、個々の作品の細部の描写が多く含まれる記述を特徴としており、各国語に訳されて出版されるばかりでなく、戦後にも版を重ねたモノグラフィーである『ジョット(Giotto)』(1924年)〔図2〕のように、より一般的に読まれうる著作に結実した例もある。地中海のみならず大西洋をも渡る国際的な移動に特徴づけられたデ・キリコの画歴に対して、カルラの活動は、戦後はとりわけイタリア国内を拠点とするものであった。1924年の書物の萌芽ともいえるジョット論(“Parlata su Giotto”, La Voce, 31 Marzo 1916.)や、ウッチェッロ論(”Paolo Uccello costruttore, La Voce, 30 Settembre 1916)など、のちに画家が「イタリア的伝統の糸を取り戻す必要を示すために」執筆したと回想することになる、雑誌『ラ・ヴォーチェ(La Voce)』において過去の美術をめぐるテクストが発表されたのは、戦時下の1916年のことであるが、ソフィッチとの書簡からは、この二人の巨匠への傾倒は、すでに1914年頃にはじまったものであったことが窺われる。さらに、絵画制作においてはもっとも寡作な時期であった1918年から1919年にかけて、画家はとりわけ精力的に執筆をおこない、それらの文章は、1918年にマリオ・ブローリオによってローマで創刊された『ヴァローリ・プラスティチ(Valori Plastici)』誌上に、デ・キリコやサヴィニオの文章と並んで発表された。それは、未来派とキュビスムの時代からとうとう完全に離れ、すでにデ・キリコの影響をも脱して、古典絵画から同時代に至るまでの広い「過去の美術」の造形、形態、構成をめぐる探究のな
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