3.2007年度助成1 明治時代における満谷国四郎─現存作とそれ以外の作品について満谷国四郎[明治7年(1874)−昭和11年(1936)]は、岡山県総社町(現、総社市)に生まれた。岡山県尋常中学校に通い、同校画学教師の松原三五郎に画才を認められ、明治24年(1891)に上京した。その翌年[明治25年(1892)]から、油彩画家が主宰する画塾として知られた不同舎で油彩画を学んだ。― 567 ―① 満谷国四郎の明治時代における活動について研 究 者:岡山県立美術館 学芸員 廣 瀬 就 久昭和時代に至るまでの満谷の画業のなかで、明治時代にまで遡る現存の作品は多くない。大正時代以降は、シャヴァンヌやポスト印象派の油彩画の影響を受けて、作品制作の動向が大きく変わっていったことを考えると、明治時代における満谷の作品には、小山正太郎による不同舎の影響が考えられる(注1)。『林大尉戦死』[明治30年(1897)、宮内庁三の丸尚蔵館]は、日清戦争で戦死した陸軍大尉、林久實の姿を描いている。満谷の回想によれば、林大尉の衣服に付着した血痕は、師の小山によるものであった。現存する作品のなかで、戦争を描いた作品は少ない。日露戦争期に描かれた『露西亜捕虜図』[明治37年頃(1904)、東京国立博物館]は、1993年に開催された満谷国四郎展に出品されているが、これは明治38年(1905)に開催された第4回太平洋画会展覧会に出品された『勝利の片影』(所在不明)の下絵と考えられ(注2)、この完成作は『戦時画報』48号[明治38年(1905)4月20日]にも紹介されている。満谷は日清戦争に続いて日露戦争においても、このような戦争画を展覧会に出品していた。現存する作品のなかで、戦争に係わる場面を描いた作品としては、『軍人の妻』[明治37年(1904)]と『戦の話』[明治39年(1906)、倉敷市立美術館]が挙げられる。『軍人の妻』では、戦死したであろう軍人の夫の遺品を掲げる妻を描いている。『戦の話』では、日露戦争に取材した作品であり、帰還した兵士の話を家族が集まって聞くという設定になっている。満谷の作品制作に対する影響という意味では、小山正太郎の指導は大きかった。小山は展覧会に油彩画を発表するだけではなく、日清戦争時にはパノラマ画を制作することを行った。このパノラマ画はサイズが大きく、小山一人の手には負えないため、満谷など不同舎の画家たちが助力を行った。また小山が不同舎にて門下生に対して指
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