2 『近事画報』『戦時画報』における満谷国四郎の口絵、コマ絵についてこの章では、『近事画報』『戦時画報』の誌面において満谷が制作した口絵、コマ絵について紹介したい。『近事画報』においては、口絵やコマ絵のほかに、表紙画も手がけているが、表紙画の点数は、『戦時画報』以後まで続いた口絵やコマ絵に比べれば少ない。よってここでは口絵、コマ絵の動向について紹介する。これらの口絵、コマ絵については、図書館に所蔵される雑誌のほか、古書市場で入手した雑誌を読みながら調査を行った。― 568 ―導したことは、鉛筆による風景図の描写であった。これは戦争が起こったときの風景描写に対して大きな力になったであろう。日露戦争の時期が近づくにつれ、出版社である敬業社の顧問であった矢野龍渓による推薦で、油彩画家の小山正太郎に絵画主任が依頼された。小山は満谷を含めた若い門下生に対して、同社が慣行する雑誌への絵画の掲載を願ったのであった。満谷が掲載した雑誌における作品とは、実際には雑誌上の口絵やコマ絵の掲載であり、これらの雑誌は『近事画報』、そして日露戦争開始とともに名称を代えた『戦時画報』である。(『近事画報』は日露戦争終結後に『戦時画報』から復刊した。)いずれも編集長は、現在では文学者として知られている国木田独歩[明治4年(1871)−明治41年(1908)]である(注3)。これらの2誌において満谷が手がけた作品の点数は多く、そこに描かれた主題や構図から、日露戦争期を中心とした作画の姿勢について調べることができる。⑴ 口絵について─日露戦争(日本軍の侵攻)口絵については、雑誌各号の主として巻頭部分に掲載されているが、日露戦争時であることもあり、この戦争に関する作品が多く見られる。最初に紹介したい作品は、日本軍のロシア軍に対する侵攻を描いた作品である。「白襷隊の松樹山突撃」(『戦時画報』34号、明治38年1月)では、画面下部に手前の光景が描かれ、画面上部には血戦の様相が描かれ、松樹山が奥行き深く表現されている。今回の作戦の戦況では、松樹山保塁の後方にある補備砲台を目指したものの、ロシアからの砲撃を受け、この作戦は失敗に終わったとされる。また「奉天占領入場式(三月十三日)」(『戦時画報』45号、明治38年4月)では、奉天での戦闘が終了し、奉天の城中へ占領のために入場する日本軍を描いている。「日本海大海戦『アリヨール』艦上の我が捕獲員」(『戦時画報』54号、明治38年6
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