鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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本初作と同様に宗理期風の人物像で描かれているが、構図に緊迫感がなく、人物の遠近感に齟齬がみられるなど、稚拙さも感じられる。『増補浮世絵類考』に「読本の密画に妙を得」と評されるような特徴は、文化3年(1806)の『報仇奇談自来也説話』頃から見られ始め、文化6年(1809)の『田村物語』〔図7〕や『尼城錦』〔図8〕において、背景や紋様の細密描写は頂点に達する。読本の挿絵は作者の意向が反映されるようで、馬琴自筆の挿絵の稿本も伝えられている(注22)。注文によっては自らの画風を自由に表現することができなかったかもしれず、はっきりと北馬画風が示されるのは『星月夜顕■録』四編(文政5年(1822)、北馬53歳)〔図9〕口絵に描かれた、つり目・突出した下唇の官女を待たなければならない。寛政12年(1800)の初作から10年余り、挿絵の仕事は北斎画風から離れ、北馬独自の画風を模索する土壌となった。文政6年(1823)(北馬54歳)の狂歌絵本『狂歌隅田川名所図会』で北馬画風が表れていることを合わせると、文政期後半の北馬50歳代後半には、出版界において北斎画風に遺存することなく独自の画風で発表できるようになったようだ。おわりに─北斎の絵画教育北斎と北馬の画業にはいくつかの相異点が認められる。まず狂歌絵本において、北馬の初作は千種庵の■書だが、北斎は千種庵に挿絵を描いていない点があげられる。読本挿絵については、伊藤めぐみ氏により、北馬の読本初作『席上怪話雨錦』が北斎の読本初作『古今奇譚蜑捨草』の作者と同じ流霞窓広住でありながら、『席上怪話雨錦』が『古今奇譚蜑捨草』の刊年(享和3年(1803))を3年溯っている点が指摘されている(注23)。これら現時点で明らかな事実からは、北馬の最初期の作画先には北斎の明らかな影響が及んでおらず、北馬の独自性を指摘することができる。さらに北馬は、文化末年からマスメディア(版本)に距離を置いてパーソナルメディア(肉筆画)に傾注するが、北斎は文化文政期以後もマスメディア(絵手本・錦絵■物)で精力的に活動している。画風においても、北馬は最初期には宗理期風の人物像を描いているが、後に「一派の筆意」を立てている。狩野派のように組織の確立した流派では、門人は画風墨守が求められ、それが流派の安定を確保する。しかし北馬の狂歌絵本・読本・肉筆画を見ると、師の画名から一字拝領し、初期に師風で描いている点以上に北斎の統制は持続していない。同時代の谷文晁一門においても、師の文晁が南蘋派風の花鳥図を多く描いていないにも関わらず、門人の金子金陵や岡田閑林が南蘋派風を多く描いていることをみると、江戸の民― 47 ―

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