和39年(1964)]である。これらの雑誌への制作のほか、他の雑誌にも口絵、コマ絵を提供していたのかどうか、満谷の場合と比較することが望まれる。注⑴ 廣瀬就久「満谷国四郎の大正時代─小杉未醒との比較を中心に─」、東京文化財研究所編『大正期美術展覧会の研究』、中央公論美術出版、平成17年(2005)、231−252頁では、大正時代に至るまでの満谷国四郎の動向を紹介している。⑵ 「第四回太平洋画会画集」、太平洋画会、明治38年(1905)、(監修、青木茂、編纂、東京文化財研究所、『近代日本アート・カタログ・コレクション 009太平洋画会第1巻』、ゆまに書房、平成13年(2001)、264頁)⑷ コマ絵とは、記事や小説の従属画ではなく、独立した詩画であり、明治30年代に入ると、新聞― 574 ―⑶ 編集者としての国木田独歩について表された文献としては、黒岩比佐子『編集者国木田独歩の満谷に対して、雑誌における口絵やコマ絵の制作と併せて、図柄の選定や評価に係わっていたと考えるのが、国木田独歩であるが、この雑誌の出版社、独歩社は、明治40年(1907)に破産した。そして独歩自身も、翌明治41年(1908)に他界する。これによって満谷は、絵画制作に対して大きな影響をもっていた人物を失うことになった。この雑誌が廃刊になったこともあり、戦争に関する注文がなくなった。油彩画の現存作で『戦の話』以降に知られるのは、『かりそめの悩み』、『車夫の家族』、『かぐや姫』[明治42年(1909)、笠間日動美術館]、『二階』といった、日々の風俗や物語に題材を得た作品になる。このなかで『車夫の家族』では、画面左上における後景には、前景の茶色っぽい色調とは異なって、光と空気を表現した外の光景を描写している。また『二階』では、画面右の女性像と後景の風景に、これまでにはなかった明るい色彩が見られ、画面全体の雰囲気を和らげている。国木田独歩と別れた満谷は、油彩画の制作もここで見たように次第に変貌させた。また戦争画や政治、社会への風刺画についても、明治43年(1910)−明治44年(1911)に起きた大逆事件を契機として、離れることになったのではないだろうか。同時に太平洋画会の画家たちとは、明治43年(1910)−明治44年(1911)に、小豆島と別府に、二回に分けて旅行し、そのときの成果は『十人写生旅行』『瀬戸内海写生一週』[2点とも明治44年(1911)、興文社]の挿絵に描かれるなど、新しい刺激に満ちた経験になったと考えられる。そして明治44年(1911)から大正3年(1914)まで、2度目の欧州旅行を行うことになるが、小山正太郎からの指導のもと、国木田独歩との交流を経た、明治期の満谷国四郎とはまた異なった、新たな作風へと変貌することになるのである。時代』、角川学芸出版、平成19年(2007)が上げられる。
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