鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 577 ―唐代の順に検討を試みていくこととする。⑴ 北朝期の如来倚坐像龍門石窟北朝期の如来倚坐像は、北魏時代の作例が古陽洞に10件、火焼洞に3件、蓮華洞に2件、石牛渓と路洞に各1件の計17件、東魏〜北斉時代の作例が蓮華洞、唐字洞、第1884号窟に各1件の計3件を確認できる。〔表1〕はこれら計20件の作例について、窟龕の編号順に配列し、それぞれの基礎情報をまとめたものである。以下、主要な作例について概略を述べる。① 古陽洞西壁W75号 比丘尼静□造像龕〔図1〕 北魏・延昌年間(512−515)龍門石窟最古の窟である古陽洞には、北魏時代の作とみられる10件の如来倚坐像を確認できる。このうち正壁中尊の台座左側面に位置する比丘尼静□造像龕(W75号)は、龕左側の題記から北魏・延昌年間(512−515)の作とわかる。龍門石窟の如来倚坐像のなかで最古の年紀を有する本仏龕の中尊如来倚坐像は、中国式に衣をまとい、右手を施無畏印、左手を膝上に伏せた説法相とし、両脇に獅子を配した方座に倚坐する。この像容は、龍門石窟北朝期の如来倚坐像におおむね共通するものであり、左手を与願印とする、台座に獅子をあらわさないなど、若干の相違は認められるものの、北魏時代から北斉時代までの龍門石窟において、如来倚坐像の像容はほぼ一様であったことがうかがえる。なお、古陽洞の作例には、題記に尊名を記すものがなく、いずれも尊名は明らかではないが、北壁第三層の楊大眼龕(N228号)の拱額中に釈■や定光仏と組み合わせてあらわされた如来倚坐像については、石松日奈子氏により、弥勒仏である可能性が指摘されている(注4)。② 蓮華洞北壁N41号 大統寺比丘道縁造無量寿像龕〔図2〕 北魏時代・6世紀前半蓮華洞北壁中層の中央やや西よりに位置する大統寺比丘道縁造無量寿像龕(N41号)は、中国式に衣をまとい、施無畏・与願印を結んで方座に倚坐する如来倚坐像を中尊とする。年紀はないものの、龕の形式などから北魏時代末期の530年前後の作と推定される本仏龕(注5)は、龕左側に「大統寺比丘道縁」が自身と眷属のために「無量寿像一区」を造像した旨の題記があり、中尊如来倚坐像は無量寿仏に比定できる。龍門石窟北朝期の無量寿仏には、禅定印の結跏趺坐像とするものもあり(注6)、なおその図像が一様ではない状況をうかがうことができるが、本仏龕と同様に、題記から無量寿仏に比定される如来倚坐像の作例には、火焼洞東壁南側の北魏・正光3年

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