鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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(522)銘公孫合妻造無量寿仏像龕(E11号)、蓮華洞南壁S53号龕上方の北斉・天保8年(557)銘比丘寶演造無量仏像龕がある。前者は像を破損し、倚坐像と方座の痕跡をのこすのみであるが、後者は方形の仏龕内に中尊如来倚坐像と二比丘二菩薩の五尊をあらわしており、龕左側の「比丘寶演造無量仏像記」から、中尊如来倚坐像が無量寿仏として造像されたことがわかる。龍門石窟北朝期の如来倚坐像のうち、題記から尊名を確認できる作例はこれら3件に限られるが、いずれも無量寿仏に比定されることは留意すべきと思われる。― 578 ―③ 路洞南壁第二層西端 降魔成道龕〔図3〕 北魏時代末期〜東魏時代・530年代北魏時代末期から東魏時代にかかる530年代ころの造営とされる路洞は、西壁に中尊如来坐像と四比丘二菩■の七尊を配する大龕を開き、南北両壁は、上下四層にわけ、第二層と第三層に各4龕ずつ、計16の仏龕を配列する。このうち南壁第二層の西端に位置する一龕は、中尊の頭部と上半身を破損するものの、中国式に衣をまとい、左手を膝上に伏せ、両脇に獅子を配した方座に倚坐する如来倚坐像であることを確認できる。本仏龕については、中尊の背後に槍と斧を持つ魔衆の姿、菩提樹とみられる樹木を浮き彫りすること、膝上に伏せた中尊左手の印相が降魔触地印とみなされることなどから、従来、仏伝における釈■の降魔成道の場面をあらわすものと考えられてきた(注7)。これに対し王振国氏は、南北両壁に配列された計16の仏龕が、『法華経』巻第三「化城喩品」に説かれる十六王子の成仏を題材とするものとし、本仏龕については、十六王子のなかで最初に成仏をとげた智積王子の降魔成道を象徴するものとの見解を示されている(注8)。④ 唐字洞前庭西壁W2号 三世仏龕〔図4〕 東魏〜北斉時代・6世紀中葉唐字洞前庭西壁の窟門上部に位置する本仏龕は、龕内に三仏四菩■の計七尊をあらわす。横並びに配列された3躯の如来像は、中央と左方を結跏趺坐像、右方を倚坐像につくり分けるが、本仏龕と同様の三仏を同一仏龕内に配列する造像は、一般に過去・現在・未来の三世に住まう仏の姿をあらわす三世仏の造像とみなされる(注9)。本仏龕も、結跏趺坐の中央像を現在仏・釈■、左方像を過去仏、倚坐の右方像を未来仏・弥勒として三世仏をあらわすものと考えられる。⑤ 第1884号窟西壁 二仏並坐像〔図5〕 東魏〜北斉時代・6世紀中葉西山の南端近くに位置する第1884号窟は、西壁にほぼ等身大の如来倚坐像2躯を横

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