鹿島美術研究 年報第28号別冊(2011)
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― 580 ―カウシャーンビー国のウダヤナ王による最古の仏像造像伝説に由来する釈■像であること、ほぼ650年代から680年代ころまでの限られた期間のうちに、中国全土でも龍門石窟や鞏県石窟などの洛陽一帯でのみ造像された極めて特殊性のある像種であること、異国風の像容をもつ本像の来源が、インド・グプタ期の彫刻に求められることなどが指摘され、その洛陽への伝来経路や三蔵法師玄奘との関わりをめぐって議論が続いている(注12)。また、その像容については、大衣を偏袒右肩にまとって右肩を露出し、衣文線をほとんどあらわさず薄く肌に密着する着衣の表現、肩や肘を大きく張りだし、腰を強く絞って抑揚を強調する肉身の表現などを特徴として、他の尊格との厳格な区別がなされていたことが指摘されている。加えて、垂下した両足を蓮台または宣字形の台にのせる点ついても、龍門石窟の他の如来倚坐像にはあまりみられないものであることは留意すべきと思われる。② 弥勒仏次に「弥勒」銘を有する作例は〔表2〕にあげた18件がある。このうち早期の作例は、破窰西壁の貞観11年(637)銘道国王母劉氏造弥勒像龕(第82号)〔図6〕、賓陽南洞北壁の貞観22年(648)銘思順坊老幼等造弥勒像龕(N96号)などがあり、年紀を有するものでは開元5年(717)銘魏牧謙像龕(第964号)が最も新しい。このことは、龍門石窟の唐代造像が本格化した貞観年間(627−649)までに、如来倚坐像が弥勒仏の図像として定着し、それが8世紀前半まで一貫して龍門石窟における弥勒造像に用いられていたことを示すものといえる。ところで、龍門石窟唐代の如来倚坐像のうち、優填王像以外の作例については、「弥勒」銘を有する作例が多くみられることを根拠として、無銘のものについても弥勒仏に比定される可能性が指摘されてきた(注13)。ただし、その像容や尊像構成には多種多様なものが認められ、各作例の尊名比定にはなお慎重な検討が必要と思われる。例えば、着衣形式では、大衣を偏袒右肩にまとい右肩に覆肩衣をあらわすものが125件(うち4件は右肩の覆肩衣の上に大衣をわずかにかける)、通肩のものが37件あり、前者を主体として、7世紀後半以降、後者が次第に増加する傾向が認められる(注14)。この他、老龍洞の南側に隣接する第700号龕〔図7〕には、優填王像と同様に、偏袒右肩に大衣をまとい右肩を露出するものがあり、双窰南洞西壁南側上方の仏龕には、右手を肩口にあげ、大衣の縁を握り、衣を肩にかけるようなしぐさを示すものもある。

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